単純ではない障がい者の就労:その2

◇◆選択しやすい世の中にシフトしていく◆◇

僕の尊敬する支援者の言葉
「一人ひとりの出口(みち)へと続くんだよ」

僕はこの言葉を大切にしています。
病状が再び、出て来たときも、こころの支えになっているし、
別のブログに書いているのですが、時々しか会わなくても
何か通じあっているのかなあと感じるのは
(松尾サイドだけですが…)、
その方の背中を見て、『みち』を歩んでいるからだと思います。

話をもとに戻しますね。
ここまで読んでくださった方は、
「ではなぜ、精神障害者福祉手帳を取得しなかったの?」
という疑問が出てくるかと思います。

理由は、大きく二つあります。
一つ目は、その(経済的)必要性がなかったということ。
松尾は当時、社会的ひきこもりの生活を送っていたので、
ひきこもりのご多分にもれず、親が生活の面倒の全てを
見てくれていました。

何でもかんでも、親がしてくれました。
本が欲しい、服が欲しいと言えば、親が買ってくれました。
そういうことです。障害者年金は必要なかったのですね。
作業所に通所する理由も、友だちづくりであり、居場所なのであり、
生活費(お小遣いづくり)云々ではまるで必要なかったわけです。

もう一つの理由は、僕自身が手帳を取得するのが嫌だった
という事実です。身勝手に聞こえるかと思いますが、
ここが人間としてどうしようもない醜さだと思っています。
病状が悪くても、通院していても、お薬を飲んでいても、
手帳を取得はしたくなかったのですね。

自分を「障害者」というくくりに入れる・入れられるのは
怖かったのです。
他人の評価など気にしなければいい、
最終的には自分がどう考えるかだ、

その頃、よくお世話になっていた支援者の方に
おっしゃっていただいていたことがあります。
「松尾くんは、たぶん、手帳は取得できないよ」
本当だったかどうかはわかりません。
もしかしたら、取得できたかもしれません。
ですが、その僕の性格の傾向をよく知る支援者の方は
そう言ってくださっていた。

そうです。僕にとって、手帳を取得するメリットよりも
デメリットの方が大きかったというわけですね。
けっきょく、障害者手帳は取得せずに
作業所には通所せずに、現在にいたります。
何が良かったとかそうでなかったとか
そういうことではなく、人生(生活)は続いています。

意識的には、徐々に公平感が出てきています。
自分が少しずつ、社会に受け入れられていく中で、
個々人と付き合う中で、
個々人を大切にせざるを得ない状況へと松尾は入ってきました。
(松尾にとっては)良い状況なのだと思います。

人間にはこのような『性(さが)』もあるのですよね。
身勝手と言えばそれにしか過ぎないし、
このような気持ちの状態を『やさしさ』とみるのか
ただの『憐れみ』とみるのかは、本当に人それぞれだと思います。

なぜ、こんな話題を出したかというと…、
現在、働いている、「若者居場所工房ぐーてん」で
紙すき作業をしていて、先日もその作業をしたからなんです。

というわけで、下記で最後です。