フリマで発揮されたそれぞれの才能をどう活かそうか

◇◆キラッと光る才能、みんな持つ才能
 親は社会はそんなものとどう関わっていくのか
◆◇

「若者居場所工房 ぐーてん」のスーパーバイザーに
よくおっしゃっていただくことが、
「みんなそれぞれ能力・才能がある、それをエンパワメント
引き出していくのが、ぐーてんでの仕事のひとつ」

じっさいには、こう述べられているわけではないのですが、
松尾はこう受け取っているのですね。
言葉というものは、発した以上、独り歩きしてしまうのは
仕方のないことなのですね。

という前置きをしておいて…少し前の話になるのですが、
10月28日(金)に、「若者居場所工房 ぐーてん」で
一日かけて、フリーマーケットをしました。
若者スタッフたちも接客や、会計、商品品だし等、
一日作業でした(とっても疲れましたね)。

そのフリマで、感じたことが冒頭の文なのですね。
それぞれ、得意なことがあって、もちろん不得意なこともあって
オールラウンダーを目指すのではなく、得意分野を極めるという考え方。

そちらのほうが、わたしは好きです。
好みとしてだけではなく、その方が実用的・実際的だとも思うのですね。
たとえば、コミュニケーションは苦手だけれど、
絵(イラスト)を描いたりするのが得意だよという人(ヒッキー系)がいるとする。
それならば、エクセルを覚えるよりも、
イラストレーションというPCソフトをマスターした方が
より社会と繋がっていけるのでは…と考えるのです。

コミュニケーション力の欠如は松尾もよく指摘されることで、
要するに、報・連・相がきちんとできない。ならば、というわけなんです。
たしかにやっているうちに、スキルは多少なり上達していきます。
ですが、アマチュアというかバイトのレベルにも達しない。
そのような傾向(性質)を持つ人間がこの世には確実に存在するのですね。

ですが、雇用している側(経営・運営者側)としてはそうはいかない。
対価を払っているのだし、もしくは対価を払っていない(ボランティア)であっても、
報・連・相そのほか基礎的な事くらいは、
きちんとやってもらわないと運営者側としても困る、というわけです。

松尾は様々な若者支援の場に居ると、当事者サイドで物を見るのですが、
そのさい、出来ないことを覚えさせようとする空気って
就労支援現場にはあったりします。
「若者仕事準備室 dan dan」や「ぐーてん」のことではありません。
「ぐーてん」は就労支援の場ではなく、就労支援に向けての
生活支援を行う居場所だと捉えています。「dan dan」の受講生さんは
伸び伸びと就労支援を受けている感じですね。)
個人的には、最低レベルまでスキルを身につければそれでよく、
後は、自分の得意分野を伸ばせばよいのではと考えています。

今まで出来なかったことを出来るようにして、
就労に近づけるというのが、就労支援というサポートだし、
またそうすることによって、受けていた立場から、納める側にするのが
就労支援の最大の目的なわけですから—
そのために行政も多額のお金を投じているわけですから、
少なくとも、松尾もその一環の機関に所属しているのですから、
文句なんか言うわけではないのですね。

いいえ、文句を言いたいわけではないのです。
個性を伸ばした方が、ダメなところはダメだとして最低限度でも良いだろう、
とした方が、効率的なのではと思うのですね。

またまた、松尾の話で申し訳ないのですが、
松尾が以前、登録ヘルパーをしていたさい、
どうしても道順や介護技術の覚えが悪かったのですね。
だから、その事業所は、あきらめてくれて、
年齢のひくい軽度の知的障がいのある利用者さんの担当にしてくれたり、
(その方とは、利用者と支援者というより友だち同士みたいな関係でした)、
もしくは松尾の事を気にいってくれた女の子の利用者さんが
参加するグループワークの(別の男性の利用者さんの)
担当にしてくれたり配慮くださいました。
本当にいろいろなご配慮のおかげで、そのヘルパー事業所では
3年近く、登録ヘルパー(アルバイト)を続けることができました。

またまた個人的な意見ですが、「ひきこもり」というパーソンは、
アルバイト的就労を続けてさえいれば
「ゴール:成功」なのではと思えるのですね。
『それ以上は求めない』というわけなんです。

もちろん、アルバイト就労では、一人前の生活費は稼げません。
結婚するための資金・結婚生活のための運営費も稼げません。
ですが…それでよいのではと考えるのです。
体調管理があったり、気持ちの波や、社会に適応できない部分は
「ひきこもり」はどうしても抱えてしまいます。

それでも就労し続けるという事態そのものが大成功なのではと思うのです。
あとは、それこそ、親がどう関わるかだと思います。
親がどう(いかに)「ひきこもりだった我が子」の面倒をみていくかだと思うのです。
私は理想論や、根性論の話をしたいのではなく、
かなり現実的に話を進めたい、展開したいと思っています。

「ひきこもり」という状態を長く続けてしまうほど、
「(様々な)障害」という状態を抱えてしまうことになります。
それは病気もそうだし、適応力の無さや性格の身勝手さ等、
それは、当事者も苦しむ、「生きづらさ」でもあります。

以前にも述べましたが、「ひきこもり」は皆さんが考えているよりも
ピュアな性格を持っています。それは、常日頃かれらと接していて
ダイレクトに感じることです。ものぐさやオフザケな性格は、ごく一部分です。
10月のフリマだけではなく、いつも生(リアル)のかれらと接していて、
そう感じるのですから、本物ではないでしょうか…。

このシリーズは続きますね。
次回では、かれらなり(ぐーてんの若者スタッフではありません)の
カッコつけ方、ダサいカッコつけ方である、
手帳を取得しないということ(障がい者の範囲に入りたがらない)や、
偉そうに言うわりには親に依存しまくることや、
その身勝手な(と捉えられる)部分を書いていきたいなと思います。

≪歳月は確実に流れていき、そのときは近づいていきます。
今日は、神戸市で「NPOマネジメントスクール」がありました。
結果は惨敗です。自分のマネジメント能力の欠如を思い知らされました。
ですが…松尾もマネジメント能力を多少なりとも
つけなくてはならない時期が近づいているようなのですね。≫