身勝手な感覚主義の初詣(元旦)でした〜★

◇◆行ったり来たりの自由と責任論◆◇

昨年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします
—と皆さまにご挨拶させて頂くまえの数日間(年末です)、
自宅にこもっていました。これはいかんな、ということで
今日は家族で自宅から近くにあるお寺に初詣に行って来ました。

このお寺は例年は、元旦でもわりと参拝客は多くなく、
スムーズに歩けて初詣を楽しめるのですが
今年は違っていて、すごく人出が多くて〜、
「これは本堂にお参りするのは難しいのでは〜」
とも思いましたが、毎年、このお寺の本堂に参拝しているので
牛歩のごとく他の参拝者と一歩一歩ともに進み、
1時間近くかけて参拝しました。

本堂に参拝すると、サーっと力が抜けたというか
楽になり、「あとは初詣を楽しもう」と
お寺の構内を少し散策しました。

構内のどこも人は多いのですが、
その多さって、ネガティブな(イヤな)印象ではなく、
あたたかさも感じられる、ポッとライトが付いたような
ここちよさもあり、「お正月のお寺も良いものだなあ〜」
なんて、ゆっくりと人散策もしました〜。

「人嫌いと人好きの合い(会い・愛)の子」
なんてまたまた好き勝手なことを書いてしまいましたが(^_^;)
「身勝手な自分を考え直すのもありだよ」
と右上のお地蔵さんあたりで父が僕に話してくれたのが印象に残っています。

私たちは本当にワガママで、人と会っていないと
寂しくなり、人とよく会うとうっとうしくもなります。
ホントに自分勝手なのですが、
その身勝手さって人間性(本質・真理)で
抗うことのできない感情・感覚で
どうせなら楽しもうと捉えなおせば〜
なんて考えてしまうのですね。

こんなことを言うと、お前ら最低だなと
お叱りを受けるかもしれませんが、
人間の感情って、常識と非常識を行ったり来たりの連続だから
どうせそうならその感情(感覚)とうまく付き合えばいい。
自分は嫌なこと言ってるなあではなく、変なこと言ってるなあ
に方向転換してしまえばいい、モノは考えようなわけですね。
最終的に自分の事は自分が責任を取ることになるわけですからね。

お寺の構内にあるコーヒーショップも
お正月はコーヒー代を高く設定しています。
その商売っ気も人のうちだし、
どうせ人間とはそんなこんなで日々を
あぶなっかしくも送っているのだから、
もうライフ全部を楽しんでしまえばいい
と発想転換してしまえばいい

無情さ、不条理さ、人の持つ多彩さ多重さ抜け目のなさも含めて
しっかりと掴んで理解して生き抜いてやればいい
どうせ無情なんだから人も人生も。
三名でコーヒーショップに行って、人数分のコーヒー頼んで
コーヒー2杯飲みたければ飲んでしまえばいい。
そして友だちにはもう1杯おごればいい。
そんな不条理的なことをしてもよいのでは〜と考えます。

モラルを守り、マナーも守りって大事ですよね〜、
でもそのことばかり考えて行動していると、本来の自由さが薄れてしまう。
約束を守ることは大切ですが、何もかも約束させられてしまうと
(私に)過度にストレスがかかってしまう。

本来の自由さ、楽しさを感じて生きていきたいのですが、
自由さとは本当は何をしてもよいではなく、
モラル・自己制約を設けたうえでそれを守ることが大切なのだから、
それが自由を謳歌することにつながる、なんて主張が行ったり来たりしている??
「自己哲学を述べてもよいのだけれど、モラルをしっかりと守るように」
ということも考えて”自己哲学”に酔いしれている元日でした〜。