(%紫点%) 「平城遷都1300年記念特別講座」(4月〜9月:全7回講義)の第五回講義の報告です。
・日時:7月9日(金)pm1時30分〜3時45分
・場所:すばるホール(会場:小ホール)(富田林市)
・演題: 「遣唐使船とその航海」
・講師: 上田 雄(うえだ たけし)先生 (日本海事史学会理事)
・受講生(出席者):67名
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右の本は、講師 上田 雄先生の著書です。
*書名:「遣唐使全航海」(出版社:草思社、2006年12月発行)
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[関係年表]
・607年・・・聖徳太子、小野妹子を隋に派遣
・630年・・・第一次遣唐使出発(大使名:犬上御田鍬)
・663年・・・白村江の戦い
・710年・・・平城京に遷都
・717年・・・第八次遣唐使出発(大使名:多治比県守。吉備真備渡唐)
・754年・・・僧鑑真来日
・794年・・・平安京に遷都
・804年・・・第十四次遣唐使出発(大使名:藤原葛野麻呂。空海・最澄渡唐)
・894年・・・菅原道真の建議により中止
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*遣唐使の目的と成果*
・中国への朝貢と先進的な唐文化の摂取。(先進技術の習得や仏教の経典などの収集)
・唐の諸制度や文化に通じた留学生・留学僧は、建設間もない日本の律令国家を整備する上で不可欠であり、律令国家の繁栄を支えていた。
・遣唐使は、危険な航海であったが、帰国後は高官につくことができた。
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.みんな知っている遣隋使・遣唐使・・・小野妹子は小学生でも知っている
2.みんな知らない遣隋使・遣唐使の実際・・・遣唐大使の名前を一人でも知っていますか?
・第一次遣唐使の大使:犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)
・知られている人・・・阿倍仲麻呂は(留学生)、空海・最澄は(留学僧)
3.遣唐使の回数は?
・研究者によってまちまち→ 12回説、13回説、15回説(上田雄氏)、18回説、20回説(東野治之氏)
4.遣隋使・遣唐使の目的は?
5.遣唐使の船の本当の姿形、大きさ、性能など?
6.遣唐使の航路
7.遣唐使の航海と航海期
・司馬遼太郎「空海の風景」の誤り
8.遣唐使の遭難・漂流について
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(%ノート%) 遣唐使の船とその航海は、もっと高く再評価されるべきである
●定説 「遣唐使船は毎航海ごとに必ず遭難した」
・確かに遭難率は高かったが・・・全ての船が遭難したわけではない。
・200年余の間に実際に渡航した遣唐使船は35隻。そのうち25隻は無事に帰還。(総人員の約80%は帰ってきている)
・遣唐使の船数・・・一回あたり船数=[1隻〜4隻](1隻あたり約120名〜160名乗船。当時であれば、かなり大きな船である)
●定説 「遣唐使は季節風を知らなかった」
・司馬遼太郎「空海の風景」の筆の誤り→司馬遼太郎の代表作の一つ、「空海の風景」 で、「・・・五島から東シナ海航路をとる遣唐使船は、六、七月という真夏をえらぶ。わざわざ逆風の季節をえらぶのである。信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。・・・」
・司馬氏の文を読めば、「.夏には風が唐から日本に吹いている。だから、六、七月の真夏が日本から唐に渡るには逆風となり、秋なれば日本から唐土に吹いて、この航路にとって順風となる」という説明 →この説明は、完全にあべこべである。
・遣唐使は、季節風を知っており、網代帆による横風帆走航海で、北極星の高度を同じに保つ同緯度航法を知っていた。→ それなりに高度の航海技術をもっていた。
・なぜ、”遣唐使船の出発を夏から初秋を選んだのか”・・・遣唐使は、中国への朝貢が主目的。中国の正月元旦の祝事に参加して朝貢するスケジュールのため、自然や気象条件を無視して往復することになったのが、遭難を生んだ理由である。