(%青点%) 後期講座(9月〜1月:全14回講義)・第7回の講義報告です。
・日時:11月2日(火) am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「小西行長」〜悲劇の戦国武将〜
・講師:桧本 多加三(ひのもと たかぞう)先生 (雑誌「堺泉州」編集長)
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*小西行長について*(略歴)
・1558年生まれ。(家は泉州・堺の豪商−薬種商−)
・主君:宇喜多直家(備前・美作)→ 豊臣秀吉 → 秀頼
・〈秀吉近臣時代〉…船奉行に任命され、水軍を率いる(約1万石)(28歳)
・〈宇土城主時代〉…秀吉の九州征伐(1587年)、翌年の肥後国衆一揆の討伐に功をあげ、肥後国の南半国−宇土城主となる(31歳)。20万石を越える。⇔肥後国の北半国は加藤清正に与えられた。…(清正との確執)
・〈文禄の役〉…文禄元年(1592年)からの文禄の役では、先陣として戦果を上げる。
・〈慶長の役〉…慶長2年(1597年)からの慶長の役。→ 秀吉の死[慶長三年(1598年)8月]により、退却。12月に帰国。
・〈関ケ原の戦い〉…慶長5年(1600年)9月15日。西軍の将として奮戦したが敗北。捕えられて京都で処刑。(42歳)
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(%エンピツ%) 講義の内容
①小西行長・簡単紹介
・堺の豪商・小西隆佐(りゅうさ)の子として1558年に生まれ…。秀吉の武将となり、南肥後(熊本南部)の領主(大名)…。加藤清正と共に朝鮮出兵の先鋒。関ケ原の合戦で敗れて刑死。42歳。キリシタン大名としても知られる。
②武将・小西行長
①豪商(薬種商)の家…薬種は、朝鮮人参・漢方薬が主で、薬種商=貿易商である。
②行長は、備前美作の領主・宇喜多直家の城下町・岡山に住んでいた。
③織田信長が重んじた堺商人は、茶の湯に堪能な津田宗及、今井宗及、千利休、…その次に重んじた数人のなかに小西隆佐の名。
④順風満帆の時代…秀吉が関白となった1585年、行長(28歳)は、小豆島、塩飽諸島など約1万石を与えられる。
⑤悩みを抱える…1587年バテレン追放令。高山右近はバテレン大名であることをつらぬき、高槻城を棄てる。(この時、行長は、秀吉に対して面従服背で高山右近を小豆島にかくまう。)
⑥肥後の南半国を小西行長(31歳)、北半国を加藤清正に与えられる。
⑦2つの困ったこと…一つは、「国人一揆」。もう一つは、「朝鮮国王入朝要求」の外交担当になる。
⑧国人一揆は、隣国・加藤清正軍の弾圧で沈静化。
⑨行長と対馬の宗氏は、「朝鮮 国王入朝要求」など拒否されるのが自明のため、「朝鮮 使節使入朝要求」にねじ曲げて交渉にあたる。
・当時の朝鮮…「中国・明に入朝」。平和であったが東人派と西人派の抗争中。
⑩1592年(文禄元年)・文禄の役。1番隊は、行長7千、宗5千ら。2番隊は清正1万、鍋島1万2千ら…。初めは、ほとんど準備していない朝鮮側は逃げる一方。
⑪1597年再度出兵・慶長の役。朝鮮の季舜臣の水軍に敗れ、蔚山(うるさん)で明軍に大敗。秀吉の死で、命からがら帰国するが、今度は、家康の横暴に石田三成らと共に関ケ原の合戦を起こすが、敗れた小西行長は石田三成、安国寺恵瓊(えけい)とともに大阪・堺を引き回された後、処刑。京都・三条河原にさらし首。
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(%ノート%) 桧本 多加三講師は、 ”戦国武将の中で、小西行長が一番好きです。”
①秀吉に対して面従腹背
・「朝鮮国王入朝」を「朝鮮使節使入朝」にねじまげて朝鮮と交渉
・戦いの中で、外交交渉を背負っていた。→ 小西行長としては、朝鮮との交渉の真実を知られたくないため、加藤清正より前へ前へいこうとした。(武将としては、矛盾した行動)
・現代人と同じような悩み…サラリーマンも面従腹背しながら、活きている。
②人間・小西行長
・堺の棄児救済施設(孤児院)に、父・隆佐とともに毎年100石を寄付。
・文禄後期、堺に癩病院を建てて40人収容。慶長年間には、大阪にも癩病院を4ヵ所建造し、400人収容。
・450年前に、ボランティア活動。⇔人殺しがあふれていた戦国時代に、しかもキリスト教も定着していない時に、”人から石を投げられないで、癩病者が雨露をしのいで、人として生きることのできる安住の場を提供している”
③このような小西行長という人が、戦国時代にいたんだということを、もっと多くの人に知ってほしい。
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(%紫点%) 【戦国時代の秘話】
*戦国時代の人々は、武将をはじめ、多くの人々が”風見鶏”
・生き残るためには、勝ち組みに入ることが第一。従って、風見鶏こそが普通の考えである。
*映画・ドラマなどの戦国時代の合戦で、戦い終わったシーン…”武具を付けたまま、多くの人が死傷して横たわっている” → まったく嘘である。多くの人が首を切られているし、武具をはじめ、フンドシまで盗られているのが実態である。特に、武将の首を差し出せば、褒賞として、田畑などの見返りが期待できるのが戦国時代。
*落ち武者ほど、しんどいものはない*
・とにかく、人より先に逃げなければ、殺される。逃げるのも必死。追いかけるのも必死。キレイごとですまないのが戦国時代。