『竹内街道をゆく』

(%緑点%) 前期講座(歴史コース:全15回講義)の第5回の講義報告です。
・日時:4月19日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:〜竹内街道をゆく NO2〜「駒ヶ谷の阿闍梨覚峰と”近つ飛鳥”」
・講師:上野 勝己先生(科長遊史会・元太子町立竹内街道歴史資料館館長)
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*竹内街道(たけのうちかいどう)*
・竹内街道は、日本書紀 推古天皇二十一年(613年)の条「難波(なには)より京(みやこ)に至る大道を置く」と記されていた日本最古の「官道」。
・竹内街道のルートは、堺市大小路−堺市金岡−松原市−羽曳野市−太子町−竹内峠−奈良県當麻町長尾神社までの約26km。
・竹内街道と呼ばれたのは、江戸時代からであり、この道は、古代の丹比道(たじひみち)であるとされている。竹内街道は、竹内峠越えで堺と大和を結ぶ要路でした。「遣隋使・遣唐使が通過した外交ルート」、「聖徳太子信仰の道」、「中世には自治都市・堺と大和を結ぶ経済の道」、「江戸時代には西国巡礼や伊勢詣などの宗教の道」、現在は、国道166号線となり、奈良と大阪を結ぶ重要な道である。
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.金剛輪寺中興の祖の阿闍梨覚峰(あじゃりかくほう)
*右は、羽曳野市駒ヶ谷の杜本神社(もりもと じんじゃ)蔵の「覚峰画像軸」です。
阿闍梨(あじゃり、あざり)…梵語で「軌範師」を意味する。①師範足るべき高僧の称。密教の秘法伝授の師。②わが国で、天台・真言の僧位。(広辞苑より)
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(1)*阿闍梨覚峰(1729年-1815年)の年譜*
・大阪長堀に生れる。1758年(宝暦8年)(30歳):駒ヶ谷杜本神社境内安養院の住職となる→1762年(宝暦12年)(34歳):金剛輪寺復興、本堂竣工す…(わずか4年で寺を復興。村おこしに奔走する)
[金剛輪寺] …杜本神社の神宮寺。天正年間(1573年−1592年)、織田信長の高屋城攻めの際、兵火によって焼失。江戸時代に入って、覚峰により再興され、現在に至る。
・1770年(明和7年)(42歳)「遊広川記」、1771年「書写山に登る記」、1772年「登石山寺記」など著作。・1797年(寛政9年)(69歳):「山陵考」、「高津宮旧跡考」、「十六山縁起註解」など著作。・1798年(寛政10年)(70歳):「磯長陵考」、「鶯陵考」、「埴生山古墳考」、「奈保山山陵隼人石考」など著作…(著作量がすごい)
・一弦琴の中興の祖。
・麦飯仙(ばくはんせん)、十六(四々)山人などの号がある。
(2)「河内名所図会」(1801年(享和元年)出版)
・ 「覚峰」を紹介…河内一の国学者[契沖(1640年−1701年)の三代弟子。(契沖:江戸中期の真言宗の僧であり、国学者)]
(3)「河内名流伝」(1894年(明治27年)出版)
・「覚峰」を紹介
2.駒ヶ谷(羽曳野市)の石造物
(1)河内飛鳥川の歌碑
・「あすか河 もみち葉なかる 葛城の 山のあき風 吹そしぬらし」人麿(新古今和歌集)
・この石碑の建立は江戸後期の1805年。揮毫は駒ヶ谷の金剛輪寺住職の阿闍梨覚峰。
(2)五十村越の歌碑
・履中天皇(去来穂別天皇)の歌…おおさかにあうや おとめをみちとへば ただにはのらず たぎまぢをのる
・履中天皇(仁徳天皇の第一子)は、難波宮から石上神宮へ逃げて行く途中、少女にあって、伏兵が居るので遠回りしろと教えられ、石上神宮でこの歌を詠んだ。→これも、旅人の誘致の一つ。
(3)杜本神社の隼人石と那富山墓の隼人石
・杜本神社の隼人石(はやといし)は、奈良市の聖武天皇の皇太子・那富山墓(なほやまのはか)にある十二支の子(ね)を表した石像に似ている。→これも、旅人の誘致の一つ。
・隼人石は人身獣面像を線刻した自然石で、隼人(はやと)は古代の朝廷に護衛として仕えた南九州の民の名で、神を守る意味から付けられた名前と考えられる。
(4)仮宮碑
・日本書紀の記述をもとに自らの寺を「近(ちかつ)飛鳥(あすか)之寺」と称し、隣接する杜本神社には清少納言の供養塔、藤原永手墓、楠木正成塔を建てる。→これも、旅人の誘致の一つ。

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3.河内飛鳥川沿いの歌碑
(1)河内飛鳥川歌碑歌とその本歌
①駒ヶ谷の歌碑…『新古今和歌集』和歌下451
「あすか河 もみち葉なかる 葛城の 山のあき風 吹そしぬらし」人麿
②太子町役場の歌碑…『万葉集』2210
「あすか川 もみぢ葉流る 葛城の 山の木の葉は 今し散るらし」作者不詳
 −(明日香河 黄 葉 流 葛木 山之木葉者 今之落
・「あすかがわ」と呼ばれる川は二つある。「大和の飛鳥川」と「河内の飛鳥川」
竹内街道を行く人旅人を呼び込む名所作りを思いつく。→飛鳥川の歌碑も旅人の誘致の一つであった。
覚峰は、万葉歌碑を建てたかったが、 『疑』 の字に引っかかった。ウソはいけない。だから、河内の飛鳥川でも矛盾のない「新古今和歌集」の歌にした。
(2)太子町役場の万葉飛鳥川歌碑
・犬養 孝の揮毫(きごう)
(3)この和歌に詠まれた飛鳥川は、”大和飛鳥川”か”河内飛鳥川”か?
・万葉集に詠まれた「飛鳥川」について、昭和・平成にかけても、多くの著名人が「河内飛鳥説」をとっている。→犬養 孝「万葉の旅」、上田正昭「大王の世紀」・「壁画古墳の謎」、大久保郁子「杜本神社と飛鳥川の歌碑」など。
・上野講師は、阿闍梨覚峰が駒ヶ谷に建てた歌碑(新古今和歌集)に賛同。(万葉集の飛鳥川の解釈について、“歌は、合理性だけで判断してよいのだろうか”と疑問を提起し、河内飛鳥川説をとらなくてもよい、という考えです。)

4.駒ヶ谷の特異な石造物群形成の背景
(1)各種「河内国絵図」からみた竹内街道石川東岸部道路網の変遷
・右の図は、1776年(安永5年)の「河内国細見図」
(2)竹内街道(本道)と間道の軋轢
「本道(竹内街道)」 …古市−駒ヶ谷−飛鳥−春日
「間道」 …古市−大黒(大黒寺)−壷井(壷井八幡宮)−通法寺−叡福寺(聖徳太子廟)
・四天王寺の道標は、「間道」を記載→旅人の多くは、間道の方に行っていたと思われる。(間道の方が、観光資源が豊富)
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○ 阿闍梨覚峰は、お世話になった村への恩返しのため、竹内街道の駒ヶ谷をもりたてて、旅人を勧誘するために奔走した ・・・「河内飛鳥川の歌碑」(新古今和歌集)、「金剛輪寺(近飛鳥之寺)」(仮宮碑)、「人身獣面の隼人石」、清少納言の古墳、楠木正成塔などを建立。このほかに、西行上人の肖像、什宝器物数々。
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*上野先生には、「竹内街道の変遷」と題してシリーズで講義の予定です。昨年9月に、「 その一」として、「竹内街道と松尾芭蕉」の講義。今回は、「その二」として、「駒ヶ谷の阿闍梨覚峰と近つ飛鳥」の講義。今回も、2時間、時おり、タオルで汗を拭きながらの熱のある講義でした。