『平家物語』に見える平清盛像

(%緑点%) 前期講座(歴史コース:全15回講義)の第11回講義の報告です。
・日時:6月28日(火)am10時〜11時30分
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 〜『平家物語』に見える平清盛像〜
・講師:四重田 陽美(よえだ はるみ)先生(大阪大谷大学教授)
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平清盛[関係年表]*
・1118年:平忠盛(ただもり)の嫡男として生れる
・1153年:(36歳)父忠盛の死後、平家一門を率いる(武門棟梁)
・1156年:(39歳)保元の乱
・1159年:(42歳)平治の乱
・1167年:(50歳)太政大臣
・1168年:(51歳)出家
・1181年:(64歳)死去
・1185年:壇の浦の戦いで平氏滅亡

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(%エンピツ%) 講義の内容
1.平家進出の過程にある二つの戦い
(1) 「保元の乱」(1156年)
①(背景その一)天皇家の争い⇒後白河天皇・鳥羽上皇と崇徳上皇。
②(背景その二)摂関家の争い⇒関白藤原忠通(ただみち)、父忠実(ただざね)との不忠。藤原忠通(兄)と頼長(よりなが((弟)が不仲。
③戦いへ
・1156年(保元元年)鳥羽上皇の崩御→後白河天皇と崇徳上皇は一触即発の状況
・[後白河天皇・藤原忠通方…平清盛(きよもり)、源義朝(よしとも)] ⇔ [崇徳上皇・藤原頼長方…平忠正(ただまさ)(清盛の叔父)、源為義(ためよし)(義朝の父)]
・後白河方の夜襲攻撃で崇徳方は大敗。頼長は落命し、崇徳上皇は捕らえられ、讃岐に配流。
(2) 「平治の乱」 (1159年)
*(戦いに)保元の乱鎮圧後、3年後
・褒賞の多寡により、源義朝や藤原信頼は不満を抱く
・1159年(平治元年)12月4日、清盛は一族を連れて熊野参詣。⇒挙兵の機会を窺っていた藤原信頼と源義朝は、三条殿をおそって後白河上皇を幽閉し、二条天皇の内裏を制圧。
・同12月25日夜、平清盛、後白河上皇と二条天皇を救出。
(戦いの終結)
・乱を鎮めた平清盛は、平家繁栄の基礎をつくる。

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2.鱸(すずき) (「平家物語」巻第一)
・右の平家物語巻第一「鱸(すずき)」では、平清盛の勲功を述べ、出世して太政大臣まで上り詰めていく、異例な昇進ぶりが記されています。
・平家がこのように繁栄したのは、熊野権現の御利益だと評判になった。
(現代語訳)「・・・清盛公がまだ安芸守であった時、伊勢の海から船で熊野にお参りになられた時に、その途中で、大きな鱸が船に飛び込んできた。・・・この鱸を料理して、家の子や家来たちに食べさせなった。そのためだろうか、めでたいことばかり続いて、太政大臣にまで極めなさった。・・・」

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3.祇園女御(ぎをんにょうご)(「平家物語」巻第六)
”清盛公の出生の秘密”
・(現代語訳)「清盛公は、忠盛の実の子でなく、本当は白河上皇の皇子である。」
・(現代語訳)「・・・白河上皇の寵愛の女性(祇園女御)がおられた。怪しい物の退治に、上皇のお供をしていた忠盛が関わり、その褒美に寵愛深い祇園女御を、忠盛に下さった。・・・」
4.禿髪(かぶろ) (「平家物語」巻第一)
・「平家物語」巻第一の「禿髪」では、平家の時の勢いのすさまじさが述べられています。
・(現代語訳) 「此(この)一門にあらざらむ人は皆人非人なりべし」 …清盛公の妻の兄時忠は「平家一門にあらざらん者はみな貴族であっても貴族の扱いを受けない」とおっしゃった。
・清盛公の全盛期には、ほんの少しの批判を言うものはいない。⇒(現代語訳)「・・・清盛公の計略で、十四歳から十五、六歳の子供を300人もそろえて、髪をおかっぱに切りそろえ、朱色の直垂(ひたたれ)を着せて、それとわかるように、京都市街の路地に放った。たまたま、平家一門の悪口をこの少年たちに聞かれたら、家財は没収され、身柄は六波羅に引っ立てられた。・・・」

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*四重田先生からのメッセージ*
「現在、大学では、日本語表現演習という講義で、学生たちに、日本語で自己表現することを教えたり、現代教養講座Ⅰ(文学)で、平家物語や源氏物語を購読したりしています。誰かを愛した時に、その人にどれだけ尽くしてもらうかを考えるのではなく、その人のためにどれだけ尽くせるかを考えること、あるいは、どういう死に方をすることがよく生きたといえることになるかを考えること、など、今の日本には薄れている古典の中の日本人を語り合っています。