(%緑点%) 前期講座(歴史コース:全15回講義)の第13回講義の報告です。
・日時:7月12日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「鉄炮伝来と堺の鉄砲鍛治」
・講師: 桧本 多加三(ひのもと たかぞう)先生(雑誌「堺泉州」編集長)
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.教科書の「鉄砲伝来」(通説)
・天文12(1543)年、九州の種子島にポルトガル人を乗せた1隻の中国船が漂着。
・島主の種子島時堯(ときたか)は、ポルトガル人の持っていた鉄砲を買い求めて、家臣にその製法を学ばせる。
・この種子島から、和泉の堺、紀伊の根来、近江の国友で鉄砲生産。
2.「鉄炮記」の要約
−鉄炮記は、伝来から60年後、種子島久時が祖父・時堯の鉄炮入手の功績を称えるために南浦文之に書かせたものです。
−”鉄炮”と”鉄砲”(同じ意味ですが、「鉄炮記」と書かれています。)
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*右の写真は、ポルトガル伝来銃(鹿児島県指定文化財)[西之表市のウェブサイト-鉄砲伝来より]
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・天文12(1543)年8月25日、種子島の西村の小浦に中国船(大船)が漂着(100余人)。
・中国船に乗っていた「明国の儒者・五峰」が西村の主宰織部丞(おりべのしょう)と杖で筆談。
・8月27日に島主・種子島時堯は、小舟数10艘を出して赤尾木に入港させる。
・船には2人の長がいて、手には真中が通じている(穴があいている)重量感のある筒を持っていた。
・種子島時堯は、2挺鉄炮を買い求め家宝に。
・時堯は、刀鍛治の八板(やいた)金兵衞に命じて複製を研究させる。
3.堺の鉄砲鍛治
・和泉堺の橘屋又三郎(「鉄砲又」)
−橘屋又三郎は、室町末期(戦国時代)の堺の商人で、種子島に1〜2年居て、鉄砲の製造や使い方を学ぶ。
−帰国後、「鉄砲又(てっぽうまた)」と称し、畿内から東国まで鉄砲を広める。
・火薬の原料「硝石」は輸入品
−「硝石」の輸入港…堺
・大坂夏の陣における堺の鉄砲鍛治”芝辻家”
−1615年「大坂夏の陣」で、芝辻家は、豊臣家から500挺、家康方から1000挺の注文を受けています。芝辻家の記録では、明暦3(1657)年、諸国からの注文が4535挺。(古文書より)
−最盛期の堺では、年間1万挺以上の生産したと考えられます。
4.鉄砲伝来がもたらしたもの
(1)鉄砲鍛治の特色
・「堺」 (大阪府・和泉)…生産して諸国に販売
・「国友」 (近江・長浜)…戦国大名に召抱えられる
・「根来」(紀伊国北部)…傭兵(銃の使い手)集団として活躍
(2)織田信長・長篠の戦 【天正3(1575)年】
・織田信長、南蛮渡来の鉄砲という新兵器を有効活用 ⇔ 武田勝頼の騎馬隊との対峙。
・武田家は、信玄の時代に300挺以上の鉄砲を購入。また、勝頼も鉄砲を購入している。
・「銃(火縄銃)の弱点」⇒発射時間に時間がかかる(1分間に4発しか撃てず)。雨の日には火縄が消える。
*新しい武器・鉄砲をもっているかどうかではなく、「もっている新しい技術を利用できたかどうか」。
(3)ネジの技術導入
・鉄砲伝来後、鉄砲製造を複製したが底をふさぐ方法がわからなかった。翌年、南蛮商人が来たとき、ネジで底をふさぐ方法を教えてもらい、鉄砲製造に成功。