『南海高野線の歴史と変貌』

(%緑点%) 前期講座(歴史コース:全15回講義)の第14回講義の報告です。
・日時:7月19日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「南海高野線の歴史と変貌」
・講師: 松本 弘先生(神戸薬科大学非常勤講師)
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*南海電気鉄道(南海)*
・大阪の難波から和歌山・関西空港・高野山を結ぶ大手私鉄。総営業キロは、154.0km。
・純民間資本として現存する日本最古の私鉄。
・設立:1925年(大正14年)3月[高野山電気鉄道]
・社名の 「南海」は、律令制の「南海道(紀伊国、淡路国、四国)」に由来。
・かつては、プロ野球球団(「南海ホークス」→現在の「福岡ソフトバンクホークス」)や野球場(大阪球場や中百舌鳥球場)を経営していたが1988年に撤退した。

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(%エンピツ%) 講義の内容
1.南海高野線のアウトライン
2.堺橋鉄道と高野鉄道
3.開通当時の神社宮司の日記資料
4.明治35年度下半期総会について
5.河内長野付近の「駅」について
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*右は、「南海電鉄路線ガイド」のパンフレットです。「高野線」は【難波−新今宮−天下茶屋−堺東−北野田−金剛−河内長野−林間田園都市−橋本−極楽橋=(ケーブルカー)=高野山】のルート。・・・真言宗の零場・高野山への足であり、大阪府南河内地域南部・和歌山県紀北地域東部から大阪への通勤・通学の路線です。
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*設立時の状況*
(1) 「堺橋鉄道」の設立[明治26(1893)年]
「高野詣の客の輸送と物資の輸送のため」の鉄道が計画。最初は、堺市と和歌山県橋本町を結ぶ鉄道のため、その頭文字をとり、「堺橋鉄道」の名称。
・「堺橋鉄道」から「高野鉄道」に改称。[明治27(1894)年]
・重要株主:太田平次(大阪・大地主)、吉年晋作(大阪・大地主)、北田豊三郎(大阪・酒類売買商)、東尾平太郎(衆議院議員)…堺及び大阪の資本が多く入っている。
(2) 「高野鉄道」の開業[明治31(1898)年]
・大小路(現・堺東) ⇔ 狭山間開業
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*右上は、明治31年頃の”チラシ”「高野鉄道・沿道名所古跡案内」です。
・当時、「大小路(堺東)−長野(河内長野)」間(4駅)は約40分。一日11便。汽車賃は二十五銭。(現在:堺東−河内長野間は13駅)
・他のルートと比較して、便利さと汽車賃の安価なことをPRしています。
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(3)狭山神社・山崎宮司の日誌より[明治31(1898)年開業時]
・「一月三十日 天気晴…高野鉄道大小路狭山間、開通セリ。祝意ヲ表スル為メ、花火ヲ打揚ゲ、相撲ヲ催ス。・・・一行五人、三時ノ汽車ニ乗リ、西村駅ヲ経テ大小路ニ至ル。暫ク休憩シ、次ノ発車、即四時、同駅ヲ発シテ帰ル。」
(開業日に、どんなものかと、汽車に乗る。)

・その後の「日誌」には、”買物、参詣などで汽車を利用”して、便利なこと、汽車に乗り遅れると、2時間待たされた…などの感想を書いています。
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*駅の歴史*(抜粋)
○「狭山遊園駅」(現:大阪狭山市駅)
・駅の開業:大正6(1917)年7月開業。
・昭和13年に「狭山遊園」を開園。戦時中は食料増産のためイモ畑。戦後、昭和27年、狭山池でモーターボートレース。昭和34年に「さやま遊園」が再開。
○「金剛駅」
・昭和12年4月開業。
・「金剛駅」の名の由来…昭和12年に南海沿線で四国八十八ヵ所霊場の出開帳(でがいちょう)が催される。出開帳というのは、遠隔地の信者のために寺院のご本尊を”出張”させて拝ませるもので、高野線の会場は、いまの金剛団地のあるあたりで、「金剛園」が設営されたが、参詣人の便をはかって、会場前に金剛駅を新設した。この出開帳は盛況で約20万人の参詣客。
・金剛団地、狭山ニュータウンにより乗降客が急増。
○「滝谷駅」
・明治31年3月開業。
・滝谷不動への参詣駅として開業した。