『近世大坂の成立』

(%緑点%) 後期講座(歴史コース)の第5回の講義報告です。
・日時:10月11日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「近世大坂の成立」
・講師: 脇田 修 (わきた おさむ)先生(大阪博物館館長・大阪大学名誉教授)
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.はじめに
○富田林市・寺内町との縁
・脇田先生の学生時代(京都大)(1950年代)、寺内町について論文を書くために、調査で富田林を訪れて、杉山家で杉山タカ(石上露子)さんにも会われて、話をされています。
・このことが縁で、杉山家文書を京都大学が譲り受けることになった。

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2.大坂前史
(原始) 「上町台地 森ノ宮遺跡など」→ (古代) 「難波長柄豊崎宮 戦後山根徳太郎先生の発見」→ (中世) 「渡辺 大川岸 渡辺党」・「四天王寺西門前 七千軒在所」→ (戦国) 「蓮如 隠居所」・「大坂(石山)本願寺 寺内町 信長により退去」
・台地の両側は湿地帯…大坂の地形は、上町台地が高台となって、古来より開けているが、西は海が迫っており淀川の河口となっており湿潤の土地であった。東側も昔は河内潟が拡がり、それが無くなった後も、大和川の本流・支流があって湿地帯であった。
・上町台地の北端部は、7〜8世紀には難波宮(なにわのみや)、また16世紀半ばには大坂本願寺、そして、大坂城と、重要な政治的・宗教的な施設が置かれた。
「大坂」 …本願寺八世法主蓮如が、明応五年(1496)、石山本願寺の地に隠居所として坊舎を営んだ。「生玉の庄内大坂という在所」(『御文章』)で、大坂という地名が出てくるのが、実は大坂の初見である。
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3.秀吉の本拠
(山崎合戦) (大坂) 「五畿内の廉目能所」・「瀬戸内海 淀川・大和川」→ (大坂築城)「上町台地北端に大坂城 台地上を南に役所・家臣団 家屋敷を天王寺へ」→ (大名屋敷)「玉造・細川 順慶町(筒井) 天満(黒田 織田信雄)」
・本能寺の変後、豊臣秀吉は、大坂本願寺の跡地に大坂城の築城を開始した。(天正十一年(1583))
・大坂は、瀬戸内海に面し、畿内を背後に控え、その内陸部へは淀川・大和川の二大河を動脈として結びついている海陸交通の要衝であった。…「五畿内の廉目能所(かどめよきところ)」
・埋田之内角田…崇禅寺寺領目録(寛正二年(1462))−[領地の中に、野田・福島・野里・北野の各村とともに、渡辺・堂島・曽根崎の地名がでている。特におもしろいのは、曽根崎の中に「埋田之内角田」という肩書がついた田地がある。現在の梅田は、元は「埋田」といったが、感じがよくないので植物の梅に変えたという伝承がある]

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4.大坂の町
(武家屋敷) 「上町台地」−(寺町)「北・南 本願寺を天満へ 真宗寺院は外」− (町人)「船場 靱 天満」、「上水 下水 買い水=淀川の水売 」− (道路)「土道 車は掘れる」・「水路 東西横堀 南堀(道頓堀)」
・城を中心にして、近辺に武家屋敷、その外側に町屋をおき、さらに外縁部に寺町をおいて防衛する。
・大坂は東から西へ(一丁目・二丁目)、京都は北から南へ(一丁目・二丁目)
・台地の西にある船場は低湿地であり、海に近いため井戸水の質が悪く飲料水に適さない地域もあった
”道頓堀の名称”は、開発者の名前にちなんでつけられている…成安道頓が開発者で、大坂夏の陣後、安井九兵衛と平野藤次郎らが完成させた。(道頓堀の開発が大坂近郊の平野・九宝寺の富豪の手で行なわれている。→大坂の建設が、中世以来の経済的基盤に支えられている)
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5.産業都市(煙の都)
(京都) 「高級品生産 西陣など」− (江戸)「消費地 職人は大工が代表」− (大坂)「産業都市」《大衆的生活必需品生産 ・木綿など繊維加工 衣料、・金属[鉄=中国地方の鉄]・[銅=南蛮吹 輸出銅 泉屋住友]、「灯火用 菜種・綿実 京・江戸の需要を賄う」、薬種「道修町》
・産業都市・大坂⇒大坂といえば商人の町といわれる。天下の台所として、全国の物資が流通し、なによりも金融面で各地の問屋資本や大名財政をおさえていたから、商業・金融業者が大坂では重きをなしていた。しかし、脇田先生は、大坂にはすぐれた加工業があり、それが都市経済の基盤をなしていた。大坂の特色は、この点にあるのではないかと考えられています。
・米・大豆などが移入→酒・酢・醤油などの加工。菜種・綿実が移入→油の加工。
・大坂の銅精錬…鎖国時代における日本の輸出品の花形は、初期には金・銀であり、17世紀後半からは銅であった。銅吹屋のなかで最大規模は、長堀の住友銅吹所であった。
・道修町(どしょうまち)は薬の町…享保七年(1722)、幕府(将軍吉宗)が国産の薬種の品質管理と流通統制をはかって、和薬改会所を設ける。
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6.むすびに
○「西廻航路」、「京都の豪商没落」、 「天下の台所」、「江戸の経済を支える」
西廻航路…17世紀半ばに日本海沿岸から大坂にいたる海上航路は、それまでの琵琶湖、河川を利用するルートから、下関海峡、瀬戸内海を通る航路に変わった。これにより、輸送料も安く、積み替えによる損傷もなくなり、大坂への物資集中力が一気に高まった。この西廻航路の開発は「天下の台所」としての大坂の地位を決定づけるものとなった。
京都の豪商没落…西廻航路の開発により、50数軒の京都の豪商が没落。
天下の台所…「各藩の蔵屋敷」、「米市場(全国から集まる米)」、「金融センター(両替商)」など。
江戸の経済を支える…江戸の後背地であった関東の経済発展が遅れており、百万の人口を持つ江戸の需要を満たすことはできなかった。生活必需品である油、木綿、鉄、銅、皮革製品、薬種、酒にいたるまで、多くの商品が大坂から江戸に送られていた。

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(%緑点%) 脇田修先生は、日本近世史の研究において、大阪を代表する研究者です。戦国(信長)時代や江戸時代における大坂の経済や政治、学芸、庶民の暮らしなど研究領域は広く、また、わかりやすく楽しい歴史を目指されています。今日の講義も、レジュメのキーワードをもとに展開され、そして、豊富なエピソードも取り入れられて、講義の時間があっという間に過ぎてしまいました。
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(%ノート%) 歴史コースの次回講義(案内)
・日時:10月25日(火)am10時〜12時
・演題: 「「アンコール・ワットを訪ねた日本の武士、森本右近太夫一房をめぐって」
・講師:中尾 芳治先生(元帝塚山学院大学教授)