『飛鳥千塚と昆支』・・・河内渡来人

(%緑点%) 後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全15回講義)の第10回講義の報告です。
・日時:12月6日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「飛鳥千塚と昆支」
・講師: 笠井 敏光先生(文化プロデューサー)
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.飛鳥千塚と昆支
○飛鳥千塚古墳群(あすかせんづかこふんぐん)(羽曳野市駒ヶ谷・飛鳥)
・大和川、飛鳥川、石川の三つの川に囲まれた、竹内街道沿道周辺一帯(安宿郡駒ヶ谷)を中心とする地域を「河内飛鳥」と呼ぶ。(「大和国」の飛鳥と区別するため、「河内飛鳥」と呼ばれる。また、「近つ飛鳥」とも呼ばれる。)
・飛鳥千塚古墳群…6世紀から7世紀にかけて羽曳野市飛鳥に分布する後期群集墳。約10m〜20mの円墳で、内部は横穴式石室、出土遺物はミニチュア炊飯具、金銅製沓などがみられる渡来系氏族の墓域。
○飛鳥戸神社
・この飛鳥の地には、百済王族の昆支王(こんきおう)を祭神とする飛鳥戸神社(あすかべじんじゃ)がある。

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2.朝鮮半島と倭国
○5世紀の朝鮮半島
・北の高句麗(こうくり)と南の新羅(しらぎ)と百済(くだら)、そして加耶(かや)地域が共存。
・高句麗の南下政策に対して、百済と加耶は抗戦し、それに倭国は援軍を送るという関係がつづいていた。(倭国と百済は、同盟関係)
・475年:百済の都、漢城(現在のソウル付近)が高句麗に攻め滅ぼされ陥落。百済は南の公州に遷都する
・538年:百済、泗泚(現在の扶余)に遷都する
・660年:百済が滅亡

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3.昆支(こんき)・武寧王(ぶねいおう)
○関係年表
・461年:昆支が倭国に来る
・462年:武寧王が誕生する
・477年:昆支が没する
・502年:武寧王が即位する
・523年:武寧王が没する

昆支は、21代百済王である兄の蓋鹵王(がいろおう)の命により、461年、倭国に派遣された。その際、兄の后を同行したが、九州の加唐島で出産した。そこで、昆支は、母子を百済に帰国させた。このとき、生れた子供が後の百済復興の英雄となる武寧王(第25代百済王)である。】
【また、昆支の5人の子の中で、第24代百済王の東城王も日本で生れた。…天皇は筑紫の兵士500人をつけて(東城王)を百済に帰国させる。】
*(注)昆支は、朝鮮の古代史「三国史記」によれば、百済の第22代文周王の弟。ところが、「日本書紀」では、第21代蓋鹵王の弟としている。

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4.飛鳥戸神社(あすかべじんじゃ)
・百済王族の昆支を、その子孫の飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)一族が祭神として祀っている。
・平安時代初期に、子孫にあたる百済宿禰(くだらのすくね)らの働きかけにより、860年に「官社」に列せられた。また、880年には春秋の祭祀として田一町が与えられた。
「飛鳥の住民たちが1500年もの長い間、異国から訪れた昆支を郷土の神社に祭り、地域全体の祖先神として大切に守り続けてきています。」

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5.まとめ
①倭国と百済の強い継続的なつながり(5世紀、6世紀、7世紀)
②河内飛鳥に多くの渡来人が活躍した(飛鳥戸造一族など)
③東城王は、500人の兵士を連れて帰国⇒この人たちが、朝鮮半島西南部・栄山江周辺の「前方後円墳」に関係しているのではないか。(九州型の石室などの特徴)
④昆支を祭神と祀っている飛鳥戸神社は、今でも続いている⇒未来の日本と朝鮮半島の関係改善

*「ビデオ鑑賞」(約10分)
○題名『関西歴史舞台−「羽曳野市の古墳(韓国からの渡来人)」
・河内飛鳥に多くの渡来人が活躍した
・飛鳥戸神社、昆支、昆支の子孫…藤原氏…清和天皇
・飛鳥千塚古墳群⇒朝鮮半島から入ってきたもの…夫婦合葬、ミニチュア炊飯器の出土、かんざし・タガネ(石を平らにする)の出土、風水による古墳の配置など
・平成13年(2001年)12月18日の今上天皇のお言葉…「韓国とのゆかり」発言
*[ウィキペディア「桓武天皇」より…今上天皇は、翌年に予定されていたサッカーワールドカップ日韓共催に関する「おことば」の中で、…「私自身としては、桓武天皇の生母が、百済の武寧王の子孫であると、続日本紀(しょくにほんき)に記されていることに、韓国とのゆかりを感じます。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は日本に仏教を伝えたことで知られています。」⇒この発言は日本では特に話題にならなかったが、韓国では大きな反響を呼びました。