「万葉空間」・・・額田王をめぐる二人の皇子

(%紫点%) 後期講座(文学・文芸コース)(9月〜1月:全15回講義)の第10回講義の報告です。
・日時:12月8日(木)午後1時半〜3時半
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「万葉空間(4)」〜万葉集の世界に遊びませんか〜
・講師: 辻 孝子先生(カルチャー講師)
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*右の絵画は、「額田王」(作:鈴木靖将(すずき やすまさ))です。
[鈴木靖将氏のプロフィール
・1944年大津市生れ。日本画家、絵本画家
・1969年第23回新制作協会展に初入選。以後、新制作協会展、創画会展に18回入選。
・万葉集などををモチーフに描き、各地で「万葉展」を開催
・韓国など海外でも「万葉 鈴木靖将展」を数回開催

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(%エンピツ%) 講義の内容
1.万葉集の季節感
「大雪」 (だいせつ)…12月7日。雪が激しく降り始めるころ(日本海側では大雪が降る年もある)。鰤(ぶり)などの冬の魚の漁が盛んになり、熊が冬眠に入り、南天の実が赤く色づくころ。
「冬至」(とうじ)…12月22日。太陽の高度が最も低く、昼の時間が短く、夜が一年で一番長い。この日に南瓜を食べたり柚子湯に入る習慣がある。
★「黄葉・紅葉」を詠んだ歌
(与謝野晶子)「黄色(こんじき)の 小さき鳥の 形して 銀杏(いちょう)散るなり 夕日の岡」
(高浜虚子)「鳩立つや 銀杏落葉を ふりかぶり」
(巻10-2210) 「明日香川 黄葉(もみちば)流る 葛城の 山の木の葉は 今し散るらし」(作者不詳)
・南河内郡太子町役場の歌碑…「飛鳥川歌碑」(犬養 孝の揮毫)
・原文:「黄葉流」
(巻10-2201) 「妹がりと 馬に鞍置きて 生駒山 うち越え来れば 紅葉散りつつ」
・原文:「紅葉散筒」…万葉集では、もみち=「黄葉」であるが、(巻10-2201)の歌では“紅葉”が使われている唯一の歌。
★「大雪」を詠んだ歌(103と104の歌は、「雪問答」となっています)
(巻2-103) 「我が里に 大雪降れり 大原の 古(ふ)りにし里に 降らまくは後(のち)」 (天武天皇)
(歌意)(わがこの里に大雪が降ったぞ。そなたが住む大原の古ぼけた里に降るのは、ずっと後のことであろう)
(巻2-104) 「我が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ」 (五百重娘(いおえのおとめ)/藤原鎌足の娘)
(歌意)(私が住むこの岡のおかみ(水を司る龍神)に言いつけて降らせた雪の、そのかけらがそちらの里に散ったのでございましょう)

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2.額田王をめぐる二人の皇子
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(1)額田王(ぬかたのおおきみ)
・額田王は、『万葉集』の初期を代表する歌人。…残した歌はそれほど数多くなく、十二首(このほかに重出歌が一首)で、このうち短歌が九首、短い長歌が三首。
・『日本書紀』には額田姫王と姫とつけているが、『万葉集』の表記は額田王です。
・また、額田王の出自については、『日本書紀」』に「鏡王(かがみのおおきみ)の女(むすめ)」と記されているだけなので、、7世紀を生きた人であることは確かですが、正確な生没年もわかっていないなど、不明な問題も多く残っています。
(2)大海人皇子と中大兄皇子
・額田王は、ともかくも飛鳥の宮廷に入り、そこで、大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)との間に愛情生活をもつことになります。
(3)中大兄の三山の歌
☆(巻1-13) 「香具山は 畝傍ををしと 耳成と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古(いにしえ)も しかにあれこそ うつせみも 妻をあらそうらしき」 (天智天皇)
・(歌意)(香具山は畝傍山をいとしいと思い、その愛を得ようと耳成山と相争った。神代からこんなふうであるらしい。いにしえもそんなふうであったからこそ、今の世の人も妻を取りあって争うのであるらしい)
(注)「大和の三山(さんざん)の歌」の解釈(香具山・畝傍山・耳成山の三角関係)には、いろいろな説があります。
☆(巻1-14) 「香具山と 耳成山と あひし時 立ちて見に来(こ)し 印南国原(いなみくにはら)」 (天智天皇)
(歌意)(香具山と耳成山とが争ったとき、阿菩大神(あぼのおおかみ)が出雲を出て見にやってきたという地だ、この印南の国原は)

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3.熟田津(にきたつ)の歌
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*右の絵画は、「熟田津の額田王」(作:鈴木靖将)です。
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☆(巻1-8) 「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出(い)でな」 (額田王)
(歌意)(熟田津から船出をしようと月の出を待っていると、待ち望んでいたとおり、月の出、潮の流れもちょうどよい具合になった。さあ、今こそ漕ぎだそうぞ)
額田王の歌の中でも、代表作であるととに、初期万葉の傑作といわれる歌
この歌は、船出を祝福する歌であり、「幸先がいいぞ」と人びとを励ます歌なのである
・斉明七年(661年)正月六日、斉明天皇(女帝・68歳)一行は、百済支援のために難波津を出港、筑紫(九州)へ向かった。この折、額田王も天皇に同行した
・熟田津…愛媛県松山市付近とする説が一般的であるが、現在、このあたりには「熟田津」という地名の痕跡がないため、具体的な位置までは確定していない。
・(注)山上憶良が記した「類聚歌林」には、これは斉明天皇の御製(歌)と記されていたことが、注釈でわかる。⇒古来名歌として名高いこの歌は、斉明天皇の歌として発表された可能性が高い。…額田王が全軍の指揮官である女帝になり代わって作歌したものであろう。

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(%ノート%) 文学・文芸コースの次回講義(案内)
・日時:12月15日(木)午後1時半〜3時半
・演題: 「光明皇后伝説と竹取物語」
・講師: 桧本 多加三先生(雑誌「堺泉州」編集長)