『天誅組河内勢』

(%緑点%) 後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全15回講義)の第12回講義の報告です。
・日時:12月20日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「天誅組河内勢」
・講師: 松本 弘先生(神戸薬科大学非常勤講師)
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*右の写真は、錦織神社(富田林市宮甲田町)の参道を入ったところにある「天誅組河内勢顕彰碑」です。碑には、「文久3年8月17日、天誅組河内勢六十余人は中山忠光卿を盟主とし、皇室の先鋒として甲田水郡邸を出発し、同日長野三日市を経て観心寺の後村上天皇を拝し、大楠公首塚の前で血盟を誓い・・・」と記されています。
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*[関係年表]
・1853年:米ペリ−、浦賀に来航
・1854年:日米和親条約の締結(開国)
・1858〜1859:安政の大獄
・1860年:井伊大老、暗殺される(桜田門外の変)
・1863年:天誅組挙兵〜終焉(40数日間)。「8月18日の政変」
・1863年:薩英戦争
・1864年〜:第一次、第二次長州征伐(幕府敗北)
・1867年:大政奉還、王政復古
・1868年:戊辰戦争、元号を明治と改める

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(%エンピツ%) 講義の内容
1.天誅組の時代背景
○尊王攘夷論(そんのうじょうい)(尊攘論)…尊王論(天皇を貴ぶ)と攘夷論(外国を追い払う)。ペリーの来航、諸外国との通商における幕府の弱腰外交が天皇への期待となって広がる。
○公武合体論(こうぶがったい)…幕府(武)と朝廷(公)と融和して外国にあたる。薩摩・会津・土佐藩が同調し、公武合体派は朝廷内でも台頭し、長州の尊攘派とせめぎ合い。
*幕藩体制を守ろうとする勢力と王政復古によって新時代を切り開こうとする勢力が京都を舞台に激しくぶつかりあっていた。

2.天誅組の動き【文久3年(1863年)8月13日〜9月28日】(月日は旧暦)
「大和行幸の計画」
8月13日、孝明天皇の神武天皇陵の参拝、攘夷親政の詔勅(みことのり)(大和行幸)を計画。
(朝廷では、三条実美らの攘夷派が実権を握り、長州・土佐などの尊攘派の志士等と画策。この計画は、攘夷祈願のために孝明天皇が神武天皇陵を参拝したのち、供を命じた各藩の兵力を利用して討幕をすすめようとした。)
「天誅組挙兵」
14日、京都・東山の方廣寺に集結。中山忠光以下39名
・天誅組の目的は、大和行幸の詔勅に従って、先遣隊として大和に義兵を挙げて天皇を迎えようとした。
「京都伏見から大阪・堺へ−・狭山・甲田村水郡邸へ−三日市・観心寺・千早峠へ」
・14日、夜のうちに大阪に入る
15日、堺へ上陸。翌16日早朝に堺を出発し、狭山を通り、河内甲田村(現富田林市甲田)の水郡 善之祐(にごり ぜんのすけ)邸で陣容を整える。
17日早朝に水郡邸出発、三日市を通り、観心寺で旗揚げ。
「五条代官所・桜井寺本陣」・「十津川募兵」
17日、五条代官所の襲撃後、桜井寺に「御政府」を開き本陣とする。
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8月18日の政変(クーデター)(中川宮は、会津・薩摩の両藩と組んで、討幕派の公卿、長州藩を一掃、大和行幸の宣布を白紙に戻す。⇒天誅組は一転して朝廷の賊軍となる。
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20日、十津川に行き募兵
「高取城攻撃」
25日、十津川兵1000人加勢に来る
26日、高取城攻撃失敗
「河内勢脱退」
・9月11日水郡等河内勢脱退別行動を取る。
「鷲家口の戦い」・「天誅組の終焉」
24日、鷲家口の激戦
27日、中山忠光等大阪に逃れ長州へ行く
「長州での中山忠光の最後」
・元治元年(1864年)11月5日夜、長州藩にひそんでいた中山忠光(20歳)は、刺客により殺される。

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(%黄点%) ”河内勢のこと”
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*右の写真は、松本先生所蔵の「天誅組河内国甲田村水郡邸出発の図(写)」を見ているところです。
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天誅組が五条へ行く前に、わざわざ、河内甲田村水郡邸に立ち寄ったのは?
・ここで加わった河内勢は、天誅組の少なくてとも四分の一以上の勢力を占め、直前の準備、人足の調達も彼らがうけもったのであり、河内勢なしにこの挙兵は不可能であった。
・河内勢は戦争の長期化に備えて、兵站部(へいたんぶ)として重視されていた。
河内勢の脱退(9月11日)
①高取城の戦いは、天誅組の惨敗に終わった。
②南進論と北進論の対立
・主将忠光らは、新宮に出て中国・四国に渡り、再挙を計る南進論
・水郡等河内勢は、今更故郷にも帰れない。屍を山野にさらして名を後世に残そうとする主戦派で、天ノ川辻を死守し、折を見て五条に敵を破り、大阪に出て中国に脱出して再挙を計る北進論
・水郡たちは、主将忠光の指揮や言動に不信を抱く

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(%赤点%)「天誅組の構成メンバー」
8月13日方廣寺に集まった39人
−【主将】:中山忠光(19歳)、【総裁職】(3人):藤井鉄石(48歳)(備前)、松本奎営(33歳)(三河刈谷)、吉村寅太郎(28歳)(土佐) 【河内の大庄屋】水郡善之祐(38歳)…等
−藩士のほとんどは、下級武士、郷士(実質は豪農)、農民(庄屋に属する人)
−出身地別…土佐17人、久留米9人、三河刈谷3人、因幡2人、肥前2人、筑前1人、肥後1人、常陸1人、河内2人
−年齢別:30代−8人、20代−29人、10代−2人
河内勢、十津川勢
(%赤点%) 「天誅組義士の最後」
*右上の資料をご覧下さい。
・天誅組の100人に近い隊士は、ほとんどが明治維新を見ることなく、志半ばで斃れました。
・天誅組関係の処刑…打首になったのは34人で、ほとんどが20代〜30代です。
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(%ノート%) まとめ
・天誅組の挙兵は、ペリー来航以来の対外危機という政治状況と尊王攘夷運動の高まりの中から起こった、尊王攘夷派の志士たちの最初の武装蜂起です。
・天誅組の挙兵は、短期間(40数日)で失敗に終わりましたが、代官所(幕府領)や小大名とはいえその居城が公然と襲撃されたことは、幕府や幕藩領主らに大きな衝撃を与え、幕府の威光の失墜を進行させる結果となった。
・「天誅組ほど純粋なものはなかった。かれらは名利を追わず、ただひたすらに日本の行く末を案じて、家を忘れ、身命をなげうって行動した。憂国の至情である。・・・」(「実記天誅組始末」樋口三郎著)
・「戦後、天誅組のことを、罪のない民を殺戮して世を騒がせただけで、建設的なものはなにもない暴力集団、情勢判断を誤った暴挙と決めつける見方が多いが、私はとらない。天誅組の変から五年後、薩長も倒幕の軍を起こした。これは、成功したが、もし失敗していたら、天誅組と同様に、暴挙といわれたのかも知れない。ことの真価は、成否だけでは定まらず、成否とともに、ことを起こしたその志(こころざし)をもみなければならない。」(「天誅組紀行」吉見良三著)