「邪馬台国連合から初期ヤマト政権へ」

(%緑点%) 前期講座(歴史コース)の第8回講義の報告です。
・日時:5月21日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:「邪馬台国連合から初期ヤマト政権へ」
・講師:白石 太一郎先生(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)
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*白石先生による3回シリーズの講義です。
【復習】
第1回「倭国の成立はいつか」(H24年4月17日)
* [中国史書にみえる倭のクニグニ−『魏志』倭人伝など]
・倭国の誕生は、二世紀初頭の「倭国王帥升」の遣使にではなく、3世紀初頭の邪馬台国を中心とする近畿から北部九州に及ぶ広域の政治連合すなわち邪馬台国連合を“倭国の成立”の時点に求めるべきである。
第2回「邪馬台国連合の成立」(H24年10月23日)
*[三角縁神獣鏡の研究、中国鏡の分布の変化、鉄資源の問題]
・3世紀初頭ころに、「鉄資源や先進的文物の入手ルートの支配権を独占していた玄界灘沿岸地域に対して、近畿地方や瀬戸内海沿岸各地の勢力が同盟を結んでこれと争い、交易ルートの支配権を奪取した出来事があったと想定。この広域の政治連合が、『魏志』倭人伝にみられる邪馬台国を中心とする 29カ国の連合、すなわち邪馬台国連合にほかならない。

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(%エンピツ%) 講義の内容
1.邪馬台国と狗奴国
(1)前方後方形の墳丘墓(西日本)と前方後方形の墳丘墓)(東日本)
・卑弥呼が生きていた三世紀前半には、まだ大規模な前方後円墳は出現していない。ただ、原型となる前方後円形の墳丘墓は造られていた。(奈良県桜井市ホケノヤマ古墳)
・東日本では、前方後方形の墳丘墓が、愛知県から岐阜県にかけての濃尾平野を中心に造られていた。(愛知県尾西市西上免遺跡)
(2)狗奴国(くなこく)
・『魏志』倭人伝には、邪馬台国に統属していた29カ国のさらに南に、狗奴国という男の治める国があって、卑弥呼の晩年に邪馬台国ないし邪馬台国連合と戦っていたことが記されています。((注)『魏志』倭人伝にとあるのは、に読み替える)
・この時期には、鉄や先進的文物の安定的な入手が東日本の首長層にとっても大きな関心事であったことは確実ですから、彼ら東日本の首長層の間にも政治的連携の動きは当然あったと考えられる。→その中核になったのがおそらく濃尾平野の狗奴国であり、これを中心に西は滋賀県東部から三重県北部、東は北陸から東海東部、長野県・山梨県、さらに関東地方を含む広い範囲に、狗奴国連合ともいうべき広域の政治連合が形成されていた可能性が大きい。

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2.邪馬台国連合から初期ヤマト政権へ
・卑弥呼の晩年に起こった邪馬台国と狗奴国の戦いは、とりもなおさず西方の邪馬台国連合と東方の狗奴国連合の戦いであった。この戦いの結果がどうなったかは、『魏志』倭人伝には書かれていません。ただその後の状況から考えて、邪馬台国連合の勝利か、その主導にもとづく和平をむかえたことは確かでしょう。→ このことは、邪馬台国連合に狗奴国連合が加わり、広域の政治連合の版図が飛躍的に拡大した事を意味します。
・卑弥呼の政権は、多分に彼女の宗教的・呪術的権威によりかかる面が大きかったのではないかと思われる。→卑弥呼の死と広域の政治連合の版図の飛躍的拡大を契機として、新しく整備され、革新されることになった政治連合を、それ以前の邪馬台国連合と区別してヤマト政権と呼んでいます。(白石先生)
・定型化した画一的内容を持つ古墳の創出こそは、新しい政治連合の政治秩序・政治体制の整備の一環にほかならなかったのではないか。

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3.邪馬台国から初期ヤマト王権へ
(1)ヤマト王権
・「ヤマト政権」(近畿中央部の勢力をはじめ、日本列島各地の政治勢力が参加)
・「ヤマト王権」(ヤマト政権の中核となった近畿中央部の政治勢力とその王権)
○右図(奈良盆地東南部における大型古墳の分布)を参照してください。(ヤマト王権の中核をになった、奈良盆地東南部の大型古墳の分布状況を示したものです。)
・三世紀中葉すぎから四世紀中頃までの、墳丘の長さが200m以上こえる大型前方後円墳が六基もある。
・同一古墳群ではなく、この地の四つの古墳群に分かれて一、二基ずつ営まれている。→古墳群というのは、血縁的な同族関係で結ばれた一つの集団が営んだものと考える。初期のヤマト政権の盟主(初期の倭国王)は、やまとのいくつかの有力な政治団体から出て、交替でその地位につくといった形の王位の継承が行われていた。…これらの古墳が、ヤマト政権の盟主、すなわち倭国王に墓であることは疑いないといえる。
(2)ヤマト王権の直接的な支配領域
○右上図(畿内地域における大型古墳の分布)を参照してください。
・古墳時代を通じて、倭国王墓を含む墳丘長200m以上の大型前方後円墳が数多く営まれるのが、畿内南部の大和・柳本古墳群、佐紀古墳群、古市古墳群、百舌鳥古墳群など、すべて畿内南部の地域であり、北ではわずかに三島野古墳群に太田茶臼山古墳(227m)が一基見られるにすぎない。→ヤマト王権の本来的な基盤は、畿内南部の大和川水系を中心とする大和、河内、和泉の地域であった。