『古文書からみた三好一族』

(%緑点%) 前期講座(歴史コース)の第9回講義の報告です。
・日時:5月28日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:古文書からみた三好一族
・講師:天野 忠幸先生(関西大学非常勤講師)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**三好一族**
阿波国三好郡(現在の徳島県三好市)の三好一族。三好元長(もとなが)は、堺幕府の実力者として、その嫡男、三好長慶は、一族を結束させ、16世紀中葉に畿内・近国の覇権を掌握した。
三好長慶(みよし ながよし)[大永二年(1522)〜永禄七年(1564)]
・1532年(天文元年)12歳で家督を継承。管領・細川晴元の執事から台頭。絶頂期には畿内・四国など9カ国を支配。しかし、嫡子義興(よしおき)らの相次ぐ身内の死と松永久秀の策謀の前に、1564年失意のうち病死。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(%エンピツ%)講義の内容
○今日の講義の古文書(9つの書状)から、下記の三つの古文書を抜粋。
1.三好長慶の肖像画
*右の資料を参照ください。…(画像は、長慶の三周忌に作成)
大徳寺僧が賛を作成(画像の上部に業績が書かれてある)
・賛の内容ー長慶は、禅宗を良く学び、南宗寺(堺)を建立、天下(首都圏)をおさめた。
・当時、京都五山(南禅寺・天竜寺など官寺)は、足利幕府が住職を任命。大徳寺は林下(りんか・私寺)だが、天皇が住職を任命。
②長慶の直垂は桐紋(三好家の家紋は三階菱)→鎌倉時代から天皇家は桐紋。三好家が巨大になったので、足利氏は桐の紋を与える。《桐紋:足利→三好→秀吉》
★この画像からは、“三好家は、足利家に対抗するため、大徳寺僧に賛を依頼し、直垂の家紋を桐にした”ことなどがみえる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2.清水寺への「禁制」
*右の資料を参照ください。
この「禁制」は、清水寺が、三好長慶に特権を保証してもらったものである。
・内容は、軍勢やその他の人々の乱入狼藉の禁止、山林や竹を取る事などの禁止、伽藍に向けて鉄砲の禁止など
・筑前守(花押)は、長慶のこと。永禄元年は、1558年。
★この古文書からは、“三好軍は、織田信長の長篠合戦(1575年)の約15年前から鉄砲を使っている”ことがわかる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3.三好長慶の「水論裁許状」(長慶裁許状」)
*右の資料を参照ください。
・(現在の高槻市の)芥川という川の用水をめぐる争議…(郡家)と(真上)とが、お互いに地図を持って訴えた。→真実をみきわめるため、使者をつかわした。→決裁は、郡家側に道理があるとした。(長慶の花押)
・この「郡家区有文書」は明治時代まで証拠としてみとめられていた。
★長慶が畿内で主導権を握り、年号が記載され、「仍状如件=仍(よつ)て件(くだん)の如し」と書き止めとする「長慶裁許状」が発給されるようになり、幕府機構をを前提としない.長慶を最高権力者とする法廷が成立した。(室町幕府は全国の権力体としては衰退していたとはいえ、畿内政権としては機能しており、将軍の意思を伝える幕府奉行人奉書が常に発給されていた。しかし、義輝が不在の時期、奉行人奉書が極端に減少し、長慶独自の裁許状が強く効力を持ったことになる。しかし、一過性にとどまった。)
○織田信長の前に、三好家の“足利幕府に対抗”する動きがあったからこそ、信長の天下取りという進出につながる。