『證空と当麻寺』

(%緑点%) 前期講座(歴史コース)の第12回講義の報告です。
・月日:6月18日(火)am10時〜12時/
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:證空と当麻寺
・講師:加藤 善朗先生(京都西山短期大学教授)
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(%エンピツ%)講義の内容
○二上山と当麻寺
*右は、二上山の夕陽(二上山の落日)です。
二上山は、大和の国の西にあり、夕陽が二つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられた特別の山であった。
・中将姫の蓮糸曼荼羅(当麻曼荼羅)の伝説で知られる当麻寺は、二上山の麓に位置する。
・当麻寺の歴史は古く、奈良時代前期に創建(しかし、創建時の文献資料はいまだに発見されていない)。
・「当麻氏の氏寺として創建」→「氏寺から曼荼羅信仰へ」→「浄土信仰の発展」(当麻寺は真言宗と浄土宗が並立する、他にあまり例をみない寺である。)…證空が大きな役割を果たす。

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○證空とは[1177年(治承元年)〜1247年(宝治元年)]
・證空(しょうくう・証空)は、西山浄土宗、浄土宗西山禅林派、浄土宗西山深草派の祖。
・1190年(建久元年)14歳、元服にあたり発心して出家。法然の弟子となり、以後、浄土教の奥義を学ぶ。以来法然臨終までの21年間、その許で就学することになる。

(注)法然[1133年〜1212年](浄土宗の開祖)
・法然の門弟は、証空の西山(せいざん)派、弁長の鎮西(ちんぜい)派、親鸞の真宗派ほか。
・法然43歳[1175年]の時、念仏の教えに開眼する(浄土宗を開宗)。
・法然66歳[1198年]の時、『選択本願念仏集』を編纂(専修念仏の教えをまとめる)

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○中将姫伝説と当麻曼荼羅
☆「奈良時代の右大臣藤原豊成の娘で、17歳で仏門に入り、蓮糸で、一夜にして1丈五尺(約4m四方)もの蓮糸曼荼羅を織り上げた。・・・」(中将姫伝説)→手の込んだこまかい絵柄(1cmに20本の織目)を、ハスの糸で織ることできない。…中国では最上級の絹糸を蓮糸という。中将姫という名の姫が出てきて、蓮糸曼荼羅が伝承されていったと思われる。

○当麻曼荼羅と證空
・当麻曼荼羅が一般に普及し、浄土信仰の霊場となる上で、大きな役割を果したのが、法然の弟子であって、浄土宗西山派の祖、證空である。→寛喜元年(1229年)奈良当麻寺に参詣して「曼荼羅」を拝見し、深く当麻曼荼羅に帰依し、中国の名僧善導の教義にもとづいて織られていることに歓喜し、『当麻曼荼羅註』を著し、自ら曼荼羅を模写するなどすっかり傾倒してしまった。→当麻曼荼羅の普及につとめた。鎌倉時代に入って、当麻曼荼羅は脚光を浴びて、参拝する信者の数が増え、曼荼羅に感激したひとが寄進をはじめ、当麻寺の寺運が開けた。

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○「当麻曼荼羅」について
・当麻寺に伝わる阿弥陀仏の治める極楽浄土の図相を表した曼荼羅(縦横約4m)。
《構図》
中央極楽が描かれている→阿弥陀如来の説法を、池の上の舞台で、37人の菩薩が聞いている。(同じところに、いくんだよということを意味している)
下方には、九品往生のさま(上品上生・上品中世・上品下正−中品・・・−下品下生)が描かれている。
左側には、下から上に、2500年前のインドの話(骨肉の争い).が描かれている。
右側には、上から下に、釈迦が説いた十三観法の図が描かれている。

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**まとめ**
「当麻曼荼羅に描かれていること」(そこに描いてあるのは何かを読み取る)
☆「当麻曼荼羅は、西方阿弥陀浄土が精密に描かれたものである。この当麻曼荼羅によって阿弥陀浄土を見ることができ、人々は来世に救いを求めることができるのである。…庶民は、視覚的に、しかも具体的に阿弥陀浄土を教えられ、導かれていくのである。」
・浄土図は、「あの世」の地図
・入り日をみること…(自分の立っている場所を知り、地球とのつながりを確認する。→かなたは立ち上げる力を与えてくれる)
・蓮華化生(死後、極楽浄土の蓮華座上に生まれること)
・すでに私たちには指定席がある(みんなであそこに行く)
・極楽に行って戻ってくる
・命のつながりを認識すること