『世阿弥の生涯とその業績』

(%紫点%) 前期講座(文学・文芸コース)(3月〜7月:全13講義)の第12回講義の報告です。
・日時:7月4日(木)午後1時半〜3時半
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:「世阿弥の生涯とその業績」〜生誕650年〜
・講師:天野 文雄先生(大阪大学名誉教授)
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(%エンピツ%) 講義の内容
〇世阿弥の生涯
・貞治二年(1363年)?〜嘉吉三年(1443年)?
-生誕については、貞治二年(1363)とする説と貞治三年(1364)の二説が現在も併立している。
-1363年生まれとすれば、今年が生誕650年

1.足利義満の時代[1368〜1394年]
(1)少年時代から青年時代(12歳頃から21歳)
・世阿弥は、父・観阿弥の子で2代目の観世太夫
・観阿弥が、洛東・今熊野の能で催した猿楽能を湘軍義満が見物して以来、観世父子を庇護。(世阿弥は12歳)
☆ 『後愚昧記』 (ごぐまいき)(押小路公忠の日記)…右の資料を参照
「義満は、祇園会の山鉾見物の桟敷に、大和の猿楽児童(=世阿弥)を同席させ、みずから盃を与えたりした。猿楽は身分の卑しい者(「乞食の所行」)であるのに、将軍がそのように少年世阿弥を寵愛するものだから、周辺の大名達が競って世阿弥に財物を与えている。」…《義満による世阿弥寵愛》

(2)青年時代から壮年時代(21歳から45歳)
・至徳元年(1384年):父・観阿弥の死
☆応永六年(1399年)に、「一条竹が鼻」で、義満後援のもと、3日間の勧進能を興行。世阿弥36歳。まさに盛りの年齢で、将軍をはじめ公武の貴顕が見物する公開の勧進能を催したのは、まさしく「天下の許され」と「天下の名望」を獲得したことにはかならなかった。⇔《世阿弥の.絶頂期》
・応永八年(1401年):「世阿弥」と名乗る
・この頃、世阿弥は「風姿花伝」をはじめ多くの伝書を書き、能を創作し、自分も演じ、指導者として張り切っていた。
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2.足利義持の時代[1394〜1423年]
(3)壮年期から老年期まで(45歳から65歳まで)
・応永十五年(1408):義満の死。
・義持は、増阿弥を後援。(増阿弥の芸は、「冷えに冷えたり」という閑寂なもので、それが禅に深く傾倒していた義持の嗜好とも一致したらしい。)←世阿弥は、義持に冷遇されたわけではなく、1422年出家し、観世太夫を長男・元雅に譲り、次男・元能(「申楽談義」の筆録者)、甥の元重も成長し、充実していた。

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3.足利義教の時代[1429〜1441年]
(4)老年期から晩年期まで(65歳から73歳まで)… 《世阿弥父子へ迫害》
・世阿弥の境遇は一変。⇒老役者・世阿弥は、はじめて好意的でない将軍を戴くことになり、また、甥の観世三郎元重との相克。
・世阿弥の次男・元能が出家(永享二年(1430))、嫡男・元雅が伊勢で客死(永享四年(1432))。永享六年(1434)世阿弥は佐渡へ配流。
★「なぜ、世阿弥は佐渡に配流されたのか」
・世阿弥が著した数々の秘伝書を観世太夫たる甥の元重に渡さなかったことによるという説があるが、理由は定かでない。
・佐渡に配流された世阿弥は、そこで二年ほど流人として生活し、謡い物集「金島書」をまとめる。→1436年頃に許されて帰還したものと思われる。…没年・享年とも不明であるが、81歳と思われる。

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〇世阿弥の業績
・世阿弥は能を創作する。従来の曲を改作するほか、台本・作曲・演出すべてを、自分ひとりで仕上げ、「能作者」の出現。
・能を高度な舞台芸術として確立させた世阿弥の功績は、その後600年以上の時を経ても、色あせる事はない。
(1)能作
・世阿弥は、能の台本たる謡曲の作者で、改作を含めれば約50曲
・《老松》《高砂》《養老》《敦盛》《頼政》《実盛》《西行桜》《野守》《恋重荷》《井筒》《江口》などが.代表作で、現在も盛んに演じられている。
(2)能楽論書
『風姿花伝』を皮切りに、21種もの伝書を残している。…『音曲口伝』、『至花道』、『花鏡』、『二曲三体人形図』、『三道』 、『六義』、『拾玉得花』など。
・これらは、世阿弥50代後半から60代前半にかけての思索の成果である。しかも、これが著述を業としない能役者の仕事であることを思うと、まことに驚くべきものがある。
・これらの芸論には共通して用語や発想のうえに「禅」の影響が認められる。