『鎌倉幕府の発展』〜承久の乱〜

(%緑点%)前期講座(歴史コース)(3月〜7月:全15講義)の第14回講義の報告です。
・日時:7月23日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:鎌倉時代の発展
・講師:若井 敏明先生(関西大学非常勤講師)
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.鎌倉幕府の性格
・京・鎌倉ふたつの政権
・鎌倉幕府は、「東国政権」と「朝廷の軍事警察権の分担者」
・守護と地頭の設置(1185年)…現在は、鎌倉時代の成立は1192年ではなく1185年が有力な説。

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2.源頼朝の死去(1199年)−頼家−実朝・・・後家・北条政子
(1)頼朝は、建久十年(1199)正月に急死。落馬が原因といわれるが、詳細は不明。
・頼朝の妻は、北条時政の娘・政子(1157−1225年)。北条義時は政子の弟。
(2)二代将軍は、嫡男頼家
・建仁二年(1202)、頼家 征夷大将軍
・北条氏と他の御家人との対立
・建仁三年(1203)8月、北条時政は、比企氏(頼家の妻の実家)を滅ぼし、頼家を修善寺に幽閉し、のちに殺してしまう。⇒9月には、実朝が三代将軍。
(3)三代将軍.、実朝(頼家の弟)
・実朝は、後鳥羽上皇を手本として、和歌や蹴鞠など京都文化を求める。藤原定家について和歌を学ぶ。万葉調の歌人と知られ、家集『金塊和歌集』。
〇後鳥羽上皇と実朝…実朝の親朝廷的態度(京の文化にあこがれた)
*「山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君に二心わがあらめやも」(実朝)
(意訳)(どんあことがあっても、君=後鳥羽上皇に真心を尽くします)
*「官打(かんうち)」(官位による呪詛)…後鳥羽上皇は、実朝を希望のまま昇進させ(権中納言→権大納言→内大臣→右大臣)、実朝が果報負けして早死にすることを望んだ。
・承久元年(1219)正月、実朝は右大臣拝賀の礼を鶴岡八幡宮で行なった際、兄頼家の子の公暁(くぎょう)に殺された。(実朝28歳)

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3.承久の乱(1221年)
(1)北条政子の大演説
・朝廷(後鳥羽上皇)は、源実朝暗殺を機に、北条義時を討とうとする。
★承久三年(1221)5月15日:後鳥羽上皇、五畿七道諸国に宛てて、北条義時追討の宣旨(後鳥羽上皇は、公家勢力を結集して挙兵した。討幕でななく、義時追討としたのは、御家人の分裂を期待したためである)

この知らせは、5月19日には、鎌倉に伝わった。
『吾妻鏡』 承久三年五月・・・*右上の資料を参照ください。
二品(北条政子)が、御家人等を簾の下に招いて、 【みんな心を一つにしてよく聞け。これは最後のことばである。今はなき頼朝公が朝敵を征伐し、鎌倉幕府を開いた後、お前たちの戴いた官位や俸禄のことを考えると、そのご恩は山よりも高く海よりも深い。ところで今逆臣という讒(そしり)によって、まちがった(義時追討)の綸旨が下された。名誉を重んずる人は、早く秀康・胤義(有力な御家人で、朝廷側に加わった北面の武士)を討ち取り、三代将軍のあとを守るべきである。ただし、院の方へ味方したい者は、ただ今申し出よ】と。 集まった武士たちはすべて命令に従い、或いは涙があふれて返事もはっきりできず、命をかけて恩に報いようと思った。
・幕議が、足柄・箱根を固めて防御しようという意見と、上洛しようという意見とに分かれたとき、上洛する断を下したのは、北条政子。
・合戦は、わずか1ヶ月で幕府軍の圧倒的勝利。

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(2)承久の乱の戦後処理
①三上皇配流
・後鳥羽・順徳の両上皇は、隠岐・佐渡に流された。土御門(つちみかど)上皇は、幕府は責任を追求しなかったが、上皇自ら希望して土佐に流され、のちに阿波に移された。
・幕府は、新しい院・天皇(皇位継承)にも干渉する力を持つようになってくる。
②六波羅探題
・北条時房・泰時は六波羅探題として、朝廷を監視し、京都や西国の行政・裁判を担当。
③新補地頭
・幕府は、上皇方の所領三千余ヵ所を没収し地頭を任命した。⇒多くの御家人が西国に所領を与えられて移住し、東国と西国という二つの世界が出会うことになる。

朝廷と幕府という二元政治が終焉し、鎌倉幕府の発展(=武家の全国政権)が確立したのである。