『土佐日記』〜心と言葉〜

(%紫点%)H25年度後期講座(文学・文芸コース)(9月〜1月:全13回講義)の第1回講義の報告です。
・日時:9月5日(木)午後1時半〜3時40分
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:『土佐日記』〜心と言葉〜
・講師:小野 恭靖先生(大阪教育大学教授)
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.『土佐日記』概説
・紀貫之が、赴任先の土佐から京都に帰るまでの五十五日の旅を日記として記した作品。
・『土佐日記』の特質…笑い(ユーモア・言葉遊び)と泣き(ペーソス・女児の喪失)
・藤原定家・藤原為家の各書写本が存在している。(原本は貫之の自筆本から書写)
【紀貫之(きのつらゆき)の略歴】
・872年頃生まれ〜945年死去。平安時代の歌人、三十六歌仙の一人。
・勅撰集『古今和歌集』(905年)の選者の一人として編纂
・延長八年(930)〜承平四年(934)にかけて、土佐国司として赴任。→『土佐日記』は935年頃の成立といわれる。

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2.『土佐日記』を読む (抜粋)
○船出の準備に、人々別れを惜しむ(*右の文章を参照)
*有名な一節 「男もすなる日記といふものを 女もしてみむとて、するなり」からこの日記は始まる。(紀貫之は、作者を女性に仮託している)
・(訳)(男も書くという日記(にき)というものを、女の私も書いてみようと思って書くのである。ある年の十二月二十日あまり一日の日(12月21日)、戌の時(午後八時頃)に旅立つ。その旅のことを、少しばかり書きつける。ある人(貫之自身)が国司としての四、五年の任期を終えて、引き継ぎなどもみな終え、解由状(任期終了の確認文書)なども受け取り、住んでいた公館を出て、乗船する港へ移る。かれこれ、知っている者、知らない者、みんなが見送る。長年、親しく付き合った人々は、別れ難く思って、一日中あれやこれやと騒いでいるうちに、夜が更(ふ)けた。)(以下省略)

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○亡き娘に心をひかれつつ船出(*右の文章を参照)
*『土佐日記』は、「京で生まれ、土佐国で亡くなった愛娘を思う心情」が全体に流れていくが、その書き出しが、この船出の場面で出てくる。
・(訳)(二十七日、大津から浦戸を目指して船を漕ぎ出す。こうして一行の中にある人は、京で生まれた女の子が、任国で急死してしまっていたので、この日頃の出発準備をみても何も言わない。京へ帰るにつけて、女の子がいないことばかりを悲しみ、恋しがる。居合わせた人々も悲しくてたまらない。・・・ 「都へと 思ふをものの 悲しきは 帰らぬ人の あればなりけり」 〈いざ都へと思うにつけても、こんなにも悲しいのは、一緒に帰れぬ人があるからであった〉)(以下省略)

*日記には、旅の行程、天候、人々との離別、人情の厚薄、船中での人々の動静、自然景観、荒天・海賊への恐れ、京への憧れなどが描かれ、喜怒哀楽の情は今の我らと、変わらない。
*『土佐日記』の中に、57首の和歌も入っている。貫之と思われる前国司の歌、筆者とされている女性の歌、子供の歌、船人の歌などさまざまな人々の歌が、旅のそれぞれの場面で詠まれている。

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○荒れはてた我が家に帰る(*右の文章を参照)
*「忘れ難く、口惜しきこと多かれど、え尽くさず。とまれかうまれ、疾く破りてむ」という一節で、この日記は終わる。
・承平四年(934)12月21日に任を解かれて国司館を門出して、越えて翌五年2月16日に京都の自宅に帰着した。
・(訳)「二月十六日・・・たった五年六年のうちに、千年も過ぎてしまったのであろうか。…どこもここもみんな荒れはててしまった…。あれこれ思い出すことばかり多く、恋しい思いでいっぱいであるなかで、この家で生まれた女の子が一緒に帰ってくることができなかった、そのことがどれほど悲しいことか。……忘れがたく、心残りは多いが、とても書き尽くすことはできない。ともかくも、早く破って捨ててしまいたい。」

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***あとがき ***
・『土佐日記』の中心となるのは、「土佐国で亡くなった愛娘を思う心情」と「行程の遅れによる帰京をはやる思い」である。
・『土佐日記』は、日記といえば男性貴族の漢文日記(記録・真名日記)が主流だった時代に、仮名で日記風に綴った作品で、日本文学上、初めての日記文学。→その後の仮名による表現、とくに女流文学(『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更科日記』など)に大きな影響を与えている。