(%緑点%)後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全15回講義)の第3回講義の報告です。
・日時:9月24日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:万里の長城と中国の国防史
・講師:来村 多加史(きたむら たかし)先生(阪南大学教授)
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**前回の復習ー7月9日の講義「万里の長城と中国の国防史」(Ⅰ)
○春秋戦国時代〜秦代〜前漢・後漢時代〜三国魏晋時代〜南北朝時代
・春秋戦国時代【前770〜前221年】:前555年頃に斉国の国境に、敵軍の侵入経路を横に遮断する長い壕(黄河の治水-土堤の築造技術-が長城に利用されたと考えられる)。→戦国中期から後期(前375〜221年)にかけて外敵に備えるために各国に長城が出現。また、北に接している燕・趙・秦は異民族(匈奴や東胡)の侵入を防ぐため長城を建設。→秦代【前221〜206年】:始皇帝は内地の長城を撤廃する一方、大軍を派遣して匈奴を後退させ、再度の侵入を防ぐため、「万里の長城」を完成させた。→前漢時代【前206〜後9年】:武帝は匈奴の討伐に取り組む。秦が建設した万里の長城の外に幾重にも長城を築き、総延長7930km(2万里)。→後漢時代【25年〜220年】:長城防衛から拠点防衛への転換。→三国魏晋時代【三世紀〜四世紀】:魏・蜀・呉、魏王朝・西晋王朝はいずれも長城を建設しなかった。→南北朝時代【420〜589年】鮮卑族の北魏王朝は主に山西方面の長城を修築。建康(南京)に都をおいた東晋・宋・斉・梁・陳の南朝は長城を建設することはなかった。
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(%エンピツ%) 講義の内容
○隋唐時代 *隋【589年〜618年】 *唐【618〜907年】(注)隋・唐はともに鮮卑族と血縁関係
・隋の楊堅(ようけん)(文帝)が大興城を築き、防衛のため黄土高原に長城を建設。
・隋の煬帝(ようだい)、ビジョンなく長城を築く…楡林(ゆりん)郡に無駄な長城を築かせ50万人が過酷な労働で死亡。また3度の高句麗遠征の失敗→隋王朝がわずか40年の短命で終わったのは、煬帝の酷政にあった。
・唐の太宗(たいそう)(李世民)は、長城を築かず、折衝府を設置し、府兵制を強化して国防をはかった。…太宗は煬帝を反面教師として、〝国力は、民力と兵力の総和である”。
・唐の玄宗は府兵制を廃止し、節度使を置いて辺境防衛をはかるも、兵力のドーナツ化現象が起こり、 「安史(あんし)の乱」(安禄山・史思明の乱)を誘引した。
(注1)節度使とは辺境防衛にためにおかれた軍官(軍事についての権限をもち、独自に軍事行動を起こすことができる辺境軍区の最高長官)。いずれも辺境に大きな兵力を備えていたため、長安周辺の兵力は相対的に低くなった。
(注2)杜甫の有名な詩(春望)「国破れて山河あり、城春にして草木深し…」は、安史の乱の都の混乱を詠う。
○五代・北宋・遼【907年〜1125年】
・947年に契丹族の耶律阿保機(ヤルートアポキン)は国号を「遼」と定め、華北の燕雲(えんうん)十六州を手に入れた。北宋は華北の諸城を固めて拠点防衛に徹し、国境の城市には大規模な地下道網を張り巡らせた。
○南宋・金代【1126〜1234年】
・女真族の金が遼を滅ぼし、開封を攻略して徽宗(きそう)を五国城に幽閉。北宋は滅びたが、臨安府(杭州)を都として南宋が再興された。→このころから、南方の各地でレンガで葺(ふ)いた城壁のめぐる磚城(せんじょう)が増加した。
・蒙古族を防ぐ金の界壕(かいごう)…草原を切る空壕(からぼり)で、壕を掘った土を内側から盛り上げて城壁を築く(金の長城ともいえる)、全長7000km以上に達する。(漢の長城が〝一時しのぎ・時間稼ぎの防衛”に対し、界壕は〝水際で食い止める防衛”を狙った)
○元代【1260〜1368年】
・金を滅ぼしたモンゴル帝国はフビライ=ハンが1271年、中国に「元」王朝を開き、南宋を滅ぼした。その結果、元朝は中国、モンゴル、チベット、東北部を支配し、高麗を属国とし、日本、東南アジアに遠征し、東アジア世界の統一を実現。《日本:元寇(1274年文永の役、1281年弘安の役)》
○明代【1368〜1644年】
・朱元璋(しゅげんしょう)は、3億5千万個の甎(れんが)で南京城を築かせ、北辺では、山海関・居庸関(いようかん)・嘉峪関(かよくかん)などを強化した。
・永楽帝は遠征軍を率いて蒙古の残存勢力を駆逐する一方、古い長城の有効利用を図った。→15世紀後半に長城建設が本格化する→1568年、倭寇討伐に功績があった譚綸(たんりん)が総督に任じられ長城の改良に着手。甎壁が強化され、敵台が建設された。火器も大量に備えられた。
○清代【1644〜1911年】
・名君の康熙帝(こうきてい)は長城を築かせず、「衆志をもって城となす」スローガンを唱えた。
○中華民国時代【1912〜1949年】
・八路軍と日本軍との間で長城の旧跡を利用した戦いがあったが、修築されることはなかった。
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**まとめ**
①長城防衛の変遷
・「戦国時代」、北方の異民族の新入を防ぐために長城を建設→「後漢」の半ばごろには放棄され、三国時代には長城防衛は行われなかった→その後「五胡十六国時代」に異民族の力が強くなり、漢民族は長江流域に南下(漢代長城より南寄りに長城を築く)→「唐(太宗)」は、長城を捨てた防衛戦略(折衝府を設置し、府兵制を強化)→「北宋」は拠点防衛に徹す(大規模な地下道網)→「南宋」、甎(レンガ)積みの城郭が増加(金は蒙古を防ぐために界壕)→「元」は長城を築かなかった(金王朝の界壕をやすやす突破したモンゴル人は長城を築くことの虚しさを逆の立場から痛感していたとも思われる)→「明代」15世紀後半に長城建設が本格化。甎壁が強化され3000か所の敵台を新築。→「清代」万里の長城、役割を終える
②長城防衛の要素
・中国の防衛…「拠点防衛」「路線防衛」「長城防衛」の三種に分類
・長城は、塞外の拠点防衛や烽燧による通信防衛、あるいは関所が抜かれた場合の路線防衛などと組み合わせて、はじめて有効に外敵を防ぐものである。
③漢代は「一時しのぎの長城」、明代の長城は、直接に外敵の攻撃にさらされ、それを防ごうとして「城」としての機能(敵台の建設、火薬兵器の備え)を高めざるをえなくなった。(しかし、万里の長城を均一に守ることは不可能で、広範囲の攻撃を受けると、どこかが決壊する)
④万里の長城から中国の歴史を学ぶ。
・匈奴、鮮卑、突厥、契丹、女真、モンゴルなどの北方民族の侵入が頻繁。
・いろいろ王朝が代わっているが、約100年ぐらいの期間は継続している。
・モンゴルと女真はそれぞれ「元」と「清」として、中華帝国を支配。