(%緑点%)後期講座(歴史コース)の第5回講義の報告です。
・日時:10月8日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:磯長谷(しながたに)の蘇我氏墳墓創出の背景
・講師:上野勝己先生(元太子町立竹内街道歴史資料館館長)
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(%エンピツ%)講義の内容
1.磯長谷と蘇我氏
・磯長谷とよばれる地域は、飛鳥時代の「王陵の谷」として有名です。現在の大阪府太子町にあたり、流れる飛鳥川の谷で、科長(しなが)とも記す。磯長に埋葬伝承を持つ人物は、「敏達天皇」、「用明天皇」、「推古天皇」、「聖徳太子」、「蘇我馬子」、「蘇我蝦夷」、「蘇我倉山田石川麿」など、蘇我氏系人物が多い。
・蘇我氏は、大化前の一世紀あまり、稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたって大臣(おおおみ)として権勢を誇った。しかし、乙巳の変(645年)で蘇我氏本宗家が滅ぶ。(中大兄皇子が入鹿を宮中で暗殺。翌日、屋敷を包囲された蝦夷は、宅邸に火をかけ自害。)
・蘇我馬子の葬られた桃原墓は、奈良県明日香村島之庄の石舞台古墳だとする説があるが果たしてどうなのか…今日の講義のテーマは、 「磯長谷の蘇我氏墳墓はこうして創られた」
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2.蘇我馬子磯長墓の創出と変遷
(1)奈良〜鎌倉時代史料にみえる馬子墓記事
A.日本書紀
○『日本書紀』推古天皇34年(626)5月…「馬子は626年に亡くなり、桃原墓に葬る」とある
○『日本書紀』舒明天皇即位前期(628)9月…「蘇我氏諸族が、嶋大臣(馬子)のために墓を造ろうと集まった」とある。
★馬子の墓は、桃原にあると考えられる。また、推古天皇が遺言で、〝国民が苦しんでいるので、新しく墓を造るのではなく、竹田皇子の墓に葬ってほしい”と言っているのに、蘇我氏は集まって、馬子の墓を造る…→『日本書紀』は、蘇我馬子や入鹿を悪臣とする編者らの歴史観が色濃く反映している。
B.聖徳太子の伝説と絵伝
○『聖徳太子伝暦』(平安前期〈917年頃〉に編纂された太子伝説の集大成)…蘇我馬子が太子の墓の前で跪いていると記す。→聖徳太子の権威づけ。
○『聖徳太子絵伝』…伝暦をもとに、右上の絵は、蘇我馬子が跪いている。
○『聖徳太子伝私記』(1238年法隆寺僧顕真)では、桃原の場所を「河内国科長東条石川也」と指定している。→右上の磯長谷の蘇我馬子墓は、伝記にもとづいて造られた墓である。
★、「聖徳太子信仰」は、奈良時代から鎌倉時代にかけて盛んで、伝暦をもとに絵伝が描かれた。
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(2)江戸時代の史料にみえる馬子磯長墓と石舞台
○『慶長五年旧紀』(慶長5年(1600)叡福寺蔵)、『大和名所記』(林宗甫・延宝9年(1681))…桃原墓は、河内飛鳥にあると記している。
○『菅笠日記』(本居宣長・明和9年(1772))…「案内人が、(岩屋=石舞台)を推古天皇の御陵といっている」と記している。
★近世(江戸時代、幕末)、馬子の墓は河内飛鳥で、石舞台古墳は、推古天皇の御陵、天武天皇の殯に付した場所とする伝承があった。
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(3)明治以降の史料にみえる馬子磯長墓と石舞台
○喜田貞吉(歴史学者) 「島の荘の石舞台の研究」 (明治45年(1912))…石舞台を馬子の桃原墓なるべしと仮定して甚だしく不可なきを信ず。→初めて、石舞台が馬子の墓であると論説した。
○岸俊男(歴史学者) 「飛鳥の世紀」 (明日香村史・昭和49年(1974))…蘇我馬子墓は所在未詳。馬子の墓であるか否かは伴出土器の年代が重要な点になろうが、なお結論は出されていない。
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3.蘇我蝦夷磯長墓の創出と変遷
○『日本書紀』(皇極天皇4年(645))…蝦夷及び入鹿は、墓に葬られた。→どこの場所かは、記してない。
○『河内名所図会』(享和元年(1801))…海老塚、葉室村(磯長谷)にあり。
○『大阪府史跡名勝天然記念物1』(大阪府学務部・昭和2年(1927))…海老塚、葉室のあり、善女龍王を祀る。俗伝によれば蘇我蝦夷の墓なりと称すれども、根拠のない説にすぎない。
○大正〜昭和初期にかけて、国策で名所旧跡、古墳墓等を保存することが勧奨された。→それで、大正になって、海老塚が蘇我蝦夷塚となって、石碑を作る。(近つ飛鳥博物館の近く一須賀古墳の中にある)
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**あとがき**
・馬子の桃原墓は、石舞台古墳であるというのは、今では定説化しています。・・・しかし、本当に《石舞台古墳は、馬子の墓なのでしょうか》・・・「桃原」の地名はどこなのか。「桃原」と「嶋」(島庄)の地名は、どうつながるか。
・馬子の墓が石舞台と言われ始めてから、まだ100年しか経過していない。(上野先生)