『考古学からみた初期ヤマト王権』

(%緑点%) 後期講座(歴史コース)の第5回講義の報告です。
・日時:10月15日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:考古学からみた初期ヤマト王権
・講師:白石 太一郎先生(近つ飛鳥博物館館長)
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【復習】◆邪馬台国連合から初期ヤマト政権
①先進文物(朝鮮半島の鉄資源や中国鏡など)の入手ルートをめぐる争い
・畿内・瀬戸内連合軍 ⇔ 玄界灘沿岸地域・・・邪馬台国を中心とする邪馬台国連合の成立
②狗奴国(東国)との関係
・3世紀中葉頃に、『魏志』倭人伝にみられるように、一時、争ったらしい。(争いがどうなったかについては記載がない。)→その後の古墳の展開過程などから考えると、邪馬台国側の勝利、ないしはその下に和平。
③初期ヤマト政権の成立
・邪馬台国連合を母体に、東方のクニグニの参加による版図の拡大と、卑弥呼の死を契機に革新された広域の政治連合を初期ヤマト政権という。このヤマト政権には、やまとの勢力を中心とする近畿中央部の勢力をはじめ、日本列島各地の政治勢力が参加していた。

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○初期ヤマト王権
《奈良盆地東南部・・・巨大な六基の前方後円墳》
(*右の図をご覧ください。)
・3世紀中葉すぎから4世紀中ごろにかけて、墳丘の長さが200mを超える大型前方後円墳が六基も、奈良盆地東南部(やまとの地域)に営まれた。
箸墓古墳(280m)[現大市墓]−西殿塚(にしとのづか)古墳(240m)[現手白香皇女陵]−.外山茶臼山(.とびちゃうすやま)古墳(200m)−メスリ山古墳(約250m)−行燈山(あんどんやま)古墳(242m)[現崇神天皇陵]−渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(310m)[現景行天皇陵]
★おそらく、この順序に構築されたと思われる。この巨大な六基は、この時期の列島の古墳の中では隔絶した規模をもつもので、初期ヤマト政権と呼ばれる政治連合の盟主の墓である。
★この初期の盟主の墓のあり方で興味深いことは、それらがいずれも奈良盆地東南部のヤマトの地に営まれながらも、それらがすべて同一の古墳群に代々営まれているわけではなく、この地の四つの古墳群(箸中古墳群、大和〈おおやまと〉古墳群、鳥見山古墳群、柳本古墳群)に分かれて、一、二基ずつ営まれている。→初期の王は、いくつかの有力な政治集団から出て、交替でその地位につくといった形の王位の継承が行われていたと考えられる。
★弥生時代後期の西日本各地には、相当の規模の墳丘を持つ首長墓が出現(地域ごとに、首長たちが共通の葬送祭祀を執り行っていた)。⇒3世紀中葉すぎ、大規模で画一的な内容(墳丘の形態、埋葬の仕方、副葬品の組合せなど)をもった墳丘墓が西日本各地に現れる。…広域の政治的連合関係が.成立したことの表れである。

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○卑弥呼
・右の『魏志』倭人伝の末尾に近い部分に、「正始八年に、張政らを倭国に遣わして、斉王の詔書と黄色の旗を難升米(卑弥呼の代理)に授け、狗奴国と戦っている卑弥呼に檄文をもって告諭した。・・・卑弥呼が死す。大きな冢を作ること径百余歩・・・。」→狗奴国と戦っていること。卑弥呼が正始八年(247年)頃亡くなり、大きな墓が作られたことが記してある。
箸墓古墳と卑弥呼
箸墓古墳は、初期ヤマト政権の盟主墓のなかでも最初のもの。さらに、その年代が3世紀中葉までさかのぼるとすると、その被葬者の候補として、卑弥呼が浮かび上がる。卑弥呼の没年は、3世紀中葉であるが、巨大古墳の造営が十数年の年月を要したことが想定され、箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性が大きい。→広域の政治連合の最初の盟主である卑弥呼の死を契機に、政治連合のシステムの再編成の一環として古墳の造営が始められたと考えられる。