『八重の桜』〜ハンサムに生きる「新島襄と八重」〜

(%紫点%)後期講座(文学・文芸コース)の第5回講義の報告です。
・日時:10月17日(木)午後1時半〜3時半
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:ハンサムに生きる…新島襄と八重…
・講師: 本井 康博先生(同志社大学元教授・「八重の桜」時代考証担当)
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1.大河ドラマ「八重の桜」の経緯と背景
*右の写真は、「八重の桜 完結編」(NHK大河ドラマストーリー)より。
・NHK大河ドラマは、「八重の桜」で、『3.11東北大震災・福島原発事故』に対して、東北・福島に元気と勇気を与えることを主眼にした番組を目指した。
・なぜ無名の八重か。→福島県県人(会津人)を主役で、八重の魅力と持ち味(逞しさ、不撓不屈、信念、男優り、元気、勇気、先駆者)を活用した。

2.八重の生涯 [1845年〜1932年]
(1)第1ステージ:会津時代(1845〜1871年)
会津のジャンヌ・ダルク
・戊辰戦争の時は、断髪・男装(亡き弟・山本三郎として男装)して、会津若松城籠城戦で、最新銃・スペンサー銃を手に奮戦。
・当時、山本八重を「会津のジャンヌ・ダルク」と呼んだことを示す文献がない(近代になってメディアがつけたキャッチフレーズ)。
(2)第2ステージ:京都時代①(1871〜1890年)
◆兄・山本覚馬を頼って家族で米沢から京都に
・山本覚馬は、薩摩藩邸に幽閉されていたが、幽閉中に口述筆記で「管見」(近代国家のあり方を示した意見書)を書き上げ、新政府に提出し岩倉具視らに認められた。
・山本覚馬は京都府顧問に就任(1870年)。→京都府の大参事・槇村正直(木戸孝允の懐刀)と京都改革
◆新島夫人(1876〜1890年)14年間:ハンサム・ウーマン 
・新島襄と婚約・結婚(1876年)。八重は「京都初のクリスチャン」
(3)第3ステージ:京都時代②(1890〜1932年)
◆新島襄死後の42年間:日本のナイチンゲール
・日清・日露戦争で国内の救護活動を指揮し、看護婦の地位向上に貢献。
・享年86歳。

3.新島襄の生涯[1843〜1890年]
(1)第1ステージ(1843〜1864年)(江戸)
・漢学、蘭学、英学を通して海外事情をつかむ→自由を求めて家出(函館から脱国)
(2)第2ステージ(1864〜1874年)(海外・ヨーロッパ、アメリカ体験)
・鎖国日本(函館)から密出国してアメリカ。8年間のアメリカ留学(3つの学校で学ぶ)。→個人の資格で帰国したのではなく、宣教師に任命されて日本に派遣された(赴任地は大阪)。
・京都は、キリスト教の学校や伝道にとって、どの都市よりも宣教師を排除する土地柄であった。
(3)第3ステージ(1875〜1890年)(京都)
・京都府顧問・山本覚馬と京都で奇しき出会い(襄の人生の中でも最大の幸運に一つ)⇒覚馬から「誘致」されるような形で、思いがけなくも京都に同志社が立地できることになる。
・八重との出逢い、結婚(1876年)
・キリスト教学校開校(男子校1875年11月、女学校1876年10月)
・同志社大学設立募金運動のさなかに病死(大磯・1890年)

4.ハンサム・カップル(ハンサムに生きた襄・八重)
Handsome is as handsome does
☆「ハンサム」の由来…〝見た目よりも心”、〝外面よりも中身”という意味の諺
・夫の襄は、八重について「彼女の生き方がハンサムなのです。」

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** あとがき**
○時代考証秘話(本井先生は、大河ドラマ「八重の桜」の時代考証を担当されています。)
・時代考証の仕事は、①「脚本」のチェックが大半(脚本は、その話ごとに3回作りなおすとのこと)②ディレクターからの電話での問合せ ③NHKの各部所から問合せ④ストーリーの大枠の提案など
・「本当はこうですよ」、「歴史家として許せない」・・・と思った場面も、最終的にはNHKスタッフが決める。→(時代考証担当を途中で辞退した人もいるらしい)
・大河ドラマは、いろんな人からクレームが寄せられる→細かいことにも配慮しないといけない。
○八重の生涯は、山本覚馬が左右した(襄との出会い、同志社を京都に誘致)。
○「八重の桜」は、東北・福島(会津)を元気づけるために、「春は必ず来る」のメッセージを発信(全50話のうち会津時代31話、京都時代①16話、京都時代②(晩年)3話の構成)