(%黄点%) シニア文化塾のイベント報告です。
○「八重の桜」〜ゆかりの京都を歩く
・月日:11月1日(金)
・【コース】:京阪・神宮丸太町駅(9時半集合)−金戒光明寺(黒谷)−会津墓地−哲学の道(一部)−熊野若王子神社−同志社墓地−岡崎公園(昼食)−新島会館(「講演会」)−新島旧邸−同志社女子大学ー同志社大学(今出川キャンパス)(現地解散16時) (約10km)
・参加者:42名(女性23名、男性19名)
・ガイド:本井康博先生(新島旧邸、御苑、同志社女学校、同志社大学の案内)
・スタッフ:佐藤リーダー、置田、栃尾、前田、常本
・天候:秋晴れ
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(%エンピツ%) 「金戒光明寺」 (こんかいこうみょうじ)(通称:“黒谷”さん)
*右上の写真は、金戒光明寺の壮大な山門です。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の大本山の一つで、承安五年(1175)比叡山西塔の黒谷をでた法然上人が草庵を結んだところ。約四万坪の大きな寺域で、城構えの寺、小高い丘に建てられた天然の要塞で、御所などの要所にも近い。
・幕末に京都守護職に任ぜられた会津藩主・松平容保が本陣を置いた(藩兵約1,000人が駐屯)。新撰組発祥の地でもある。
《会津墓地》:黒谷の広い敷地の北の端、小高い丘の長い石段を登ると会津墓地がある。八重の弟三郎をはじめ、鳥羽伏見の戦いで戦死した会津藩士の墓碑が並んでいて、菩提を弔っている。
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(%エンピツ%) 「同志社墓地」
*写真は、左側に八重、右側に新島襄の墓。八重の墓碑銘は徳富蘇峰の揮毫によるもの。
・哲学の道の南端にある若王子神社から、山道を徒歩20分〜30分(シニアにはキツイ山道)。新島襄をはじめ、妻八重や兄の山本覚馬、父(権八)、母(佐久)、弟(三郎)など八重の家族、ディヴィス、徳富蘇峰(猪一郎)、同志社関係の宣教師などもこの地に眠っています。
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(%エンピツ%) 新島会館「講演会」
*講演会場は、新島会館内の集会室(ステンドグラスが美しい部屋、有料)です。
・演題:『八重にまなぶ…ハンサムに生きる…』
・時間:午後1時半〜2時半
・講師:本井康博先生(同志社大学元教授)
(本井先生は、大河ドラマ「八重の桜」の時代考証を担当)
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(%エンピツ%) 「新島旧邸」
*右は、「新島旧邸」(同志社大学 同志社社史資料センター)のパンフレット(兼入場証)です。
・「新島旧邸」は、同志社発祥の地。竣工は明治11年(1878)。同志社の歴史と明治初期の洋風生活のあり方を伝える歴史的建造物として公開されている。
(見学は、予約申込制です。見学のシーズン(大河ドラマと秋の京都)で、問い合わせがかなり多いようです。)
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(%エンピツ%)「同志社大学」(旧薩摩藩邸)
*写真は、同志社大学今出川キャンパス(レンガ造りの校舎)です。
・山本覚馬が維新後購入していた旧薩摩藩邸の敷地6000坪を学校用地として、新島襄に安価で譲った土地が現在の同志社大学今出川校地。
・新島襄は、同志社大学の前身、同志社英学校を山本覚馬の尽力もあって開校。私学同志社大学設立をめざして奔走していたが、病に倒れ、明治23年(1890)46歳の若さで逝去…明治9年(1876)に八重と結婚してわずか14年の夫婦生活。
・八重は、襄の死後、同志社とはやや距離を置きながら、日清・日露戦争に篤志看護婦として活動(普段は茶道に一生懸命)。昭和7年(1932)逝去、享年88歳。