(%緑点%) 「後期講座(歴史コース)」(9月〜1月:全15講義)の第10回講義の報告です。
・日時:12月3日(火)am10時〜12時10分
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:国分寺−その制度と発掘された事例から−
・講師:佐藤興治先生(奈良文化財研究所名誉研究員)
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.国分寺とは
・聖武天皇が天平十三年(741)に詔(みことのり)を下し、全国60余ヶ所に建立を命じた国分僧寺(こくぶんそうじ)(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(こくぶんにじ)(法華滅罪之寺)の総称である。
・『続日本紀』(天平十三年 国分寺建立の詔)「…宜しく天下の諸国をして、各つつしんで七重塔一区を造り、ならびに金光明最勝王経、妙蓮華経、各一部を写さしむべし。・・・」
◆国分寺制度の内容
*右の資料を参照して下さい。
「国ごとに、その国のもっとも良い場所を選んで寺地とし、…国分僧寺には封戸五十戸(寺用の家50戸)、水田十町(十町の水田でとれた米はすべて寺に施入)、…僧寺には必ず僧二十人、尼寺には尼十人を置くこと、・・・」など命じた。
2.「国分寺建立の詔」の背景
・国分寺を諸国に造立し、国家の安穏を祈らせた背景には、天平初年から始まった社会的な不安であった。それは、天平四年(732)頃から続いた全国的な天候不順による不作と飢饉が、天平九年(737年)には九州に発生した天然痘が全国に広がり、時の政権の中枢にあった「藤原不比等の四子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)」が、全員天然痘で死亡し、さらに、天平十二年(740年)には、藤原広嗣の乱[藤原宇合(うまかい)の長男で、大宰府に左遷された広嗣が、吉備真備と僧玄昉らの排斥をうたって武力蜂起。広嗣は敗北]が起こるなど、政治的な不安と危機を招いていた。
・中国の仏教制度との関係…唐に留学した僧玄昉(げんぼう)らが、中国の官寺制度(則天武后が天下諸州に大雲寺を設けて大雲経を講読させているなど。)の例にならって国ごとに二寺ずつ建立するよう聖武天皇にすすめたことがきっかけとなった。
・国分寺の建立は、仏教による国家護持(鎮護国家)がねらいであった。
3.東大寺と法華寺
○東大寺(金光明四天王護国之寺)(国分寺の中心をさす「総国分寺」)
・聖武天皇が“大仏造立”を思いたったのは、天正12年(740)、河内国の知識寺で、盧舎那仏を拝した時である。→天正15年(743)に盧舎那仏(大仏)造立の詔。→大仏の開眼供養会は、天平勝宝五年(752)。…その後.、講堂舎が整えられて鎮護国家の象徴としての東大寺が完成
・伽藍配置…(右上図を参照)金堂(大仏殿)、講堂、中門、南大門が一直線に並び、中門からでる回廊が金堂にとりつき、南大門との間に双塔(東・西塔)を配する。
(注)寺院は本来、仏舎利(=仏陀の骨)を納める塔が中心であったが、奈良時代になると、仏教は「鎮護国家的性格」、「学問的性格」が強まり、本尊を安置する金堂、学問をするための講堂・経蔵が重視されるようになった。
○法華寺(法華滅罪之寺)(国分尼寺の中心「総国分尼寺」)
・光明皇后が父の藤原不比等の邸宅跡を官寺に改めたことに始まる。天平宝字二年(758)には造法華寺司が設けられ、公式に法華寺が発足。(右上図を参照)
4.発掘された国分寺
・延暦年間(782〜805年)に編集された『延暦僧録』には、「僧尼寺合わせて124か所、62区、僧1241人を数え、尼620人を数える」とある。…奈良時代末には国分寺の体制がほぼ整っていたことがわかる。
・中世になると忘れられていく。…律令制が緩み始める(公地公民制→私有地)、国家仏教の衰退(鎌倉仏教などの興隆)などで、遺跡になっていく。
・現在は、約1/3の国分寺が現存(その1/2が奈良時代の宗派、1/2が他の宗派)。
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◆遺跡(国分寺・国分尼寺)の発掘調査
・1951年の遠江国分寺が初めての発掘調査で、その後、僧寺20ヶ所、尼寺11ヶ所あまりが調査されている
○国分寺の建設、施設の維持は地方の負担。全国に統一して詔勅は出されたものの、技術者不足もあって、地区によっては造営のはかどらない国は、いくつもあったようである。
○多様な伽藍配置…(右上の図を参照)
・従来は、金堂・講堂を南北線上に配置し、塔を東南に置いた東大式伽藍とされていたが、伽藍配置は一律でないことがわかってきた。
*(東大寺式)…出雲・伊豆・遠江など。(法隆寺式)…相模など。(大官大寺式)…筑前など。
○塔はすべて七重であったのか(詔勅では「七重塔一区を造立」とある。)
・国分寺の塔で現存するものはなく、遺跡からも証明できない。…発掘された塔と礎石が残っている塔の平面面積をみると、五重塔、三重塔も多くあった可能性が高い。
・尼寺は、一町四方の寺域を持ち、回廊内に金堂を置き、 塔を省略した東大寺式が多い。