『幕末の京の事件簿』〜安政の大獄〜

(%緑点%)「後期講座(歴史コース)」(9月〜1月:全15回講義)の大2回講義の報告です。
・日時:12月24日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:「幕末の京(みやこ)の事件簿」−安政の大獄−
・講師:前原 圭介先生(立命館大学非常勤講師)
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**安政の大獄[関係年表]**
・1853年(嘉永6):ペリー来航
・1858年(安政5):4月井伊直弼、大老に就任。6月日米修好通商条約。将軍継嗣決定。9月安政の大獄(〜1859年)
・1860年(万延1):3月桜田門外の変(井伊直弼暗殺)

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(%エンピツ%)講義の内容
1.日米修好通商条約と将軍継嗣問題
(1)井伊直弼、大老に就任【安政5年(1858)4月23日】
◇大老とは…幕府機構の最高位に置かれた非常時の職で、常に人が配されていない。井伊家は大老をだす譜代の名門。直弼は彦根35万石藩主。((注)徳川幕府260年余の間に大老になったのは7名)
・井伊直弼の直面する政治課題は、①将軍家定の後継者選定の問題 ②日米条約締結の締結問題。

(2)将軍継嗣問題
・13代将軍徳川家定は、生来体質虚弱で子がない。
・南紀派と一橋派…南紀派:紀伊藩主徳川慶福(よしとみ)12歳【家定の意志は慶福。井伊直弼、譜代大名、旗本など直参。幕府の内部はほとんど慶福】 ⇔ 一橋派:一橋家当主徳川(一橋)慶喜21歳(斉昭の子)【徳川斉昭(水戸藩主)、松平慶永(越前藩主)、島津斉彬(薩摩藩主)】
○安政5年(1858)5月1日、家定は、大老および老中を招いて慶福継嗣を伝えた。6月1日、三家(尾張・水戸・紀伊)ならびに溜間詰(たまりのまづめ)(江戸城内の大名の溜まり場)にたいして継嗣決定を伝達。公表は6月25日の予定。
■6月24日(将軍継嗣の公表予定の前日)、徳川斉昭、徳川慶恕(尾張藩主)、松平慶永がそれぞれ登城して井伊直弼に面会を求め、井伊を難詰(朝廷の許可を得ずに条約を調印したこと責め、あわせて徳川慶喜を継嗣に選定することを要請。)→不時登城とよばれる違反行為(大名の登城日は毎月1日と15日に決まっている)。
■7月5日、一橋派の一門を追放。斉昭→謹慎、慶恕・慶永→隠居謹慎、慶喜→登城禁止。その翌6日に将軍家定、死去。


(3)条約調印
・1856年(安政3)、アメリカ総領事としてハリスが下田に着任。
・1857年(安政4)、アロー号事件の発生と英仏軍による広東占領
○条約調印に関して(*右上の資料を参照してください。)
①朝廷(孝明天皇)は、「諸侯の意見を勘案して、改めてその是非を決定する」
②アメリカ総領事のハリスは、「アロー号事件など東アジアの情勢の変化を語り、通商条約の締結の必要性を説いた」
③伊井直弼は、「条約調印には勅許が必要」。(諸大名はほとんど条約締結に同意)
④岩瀬忠震は、「この調印は、徳川家の安危にかかわるほどの大変なことになるかもしれないが、国家(日本)の安危・存亡を一身に受けて(国が残るように)、事にあたりました。」
■6月19日、岩瀬忠震と井上清直とが全権として江戸湾に停泊中の米艦に派遣され、日米修好通商条約が調印された。→孝明天皇の勅許を得ていない「違勅調印」
(注)条約調印の勅許が必要という定めはなく、「違勅調印」は一橋派が言っていること。(ペリー来航以来、幕府は外国との関係にかかる事件の様々を朝廷に報告している。)

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2.戊午の密勅
○孝明天皇、条約調印の報告を受け激怒→三家あるいは大老のうちから上洛を求めた。→幕府はこれを拒絶し、老中・間部詮勝(まなべあきかず)を派遣。
幕府と水戸藩に勅諚(ちょくじょう)を交付
・内容…「幕府の条約調印を非難し、先の斉昭や慶恕らの処分の不審を呈し、幕府の施政に批判」、「国家の大事なので、大老老中そのほか三家三卿家門列藩外様譜代とも一同群議評定して事態に対処」。
・伝達の方式…水戸藩には.、「この内容を諸藩に伝達せよ」との別勅が添付。諸大名には縁家(近衛、一条、二条、鷹司、.三条)を通じて密勅廻覧。
問題点
・勅諚は幕府に伝達されるべき→8月8日勅諚は直接に水戸藩士に渡された。8月10日に同内容の勅諚が在京の幕府官吏に付与された。…幕藩体制の秩序からの逸脱
・天皇の勅諚で、「幕府政治の批判」
(注1)「戊午」(ぼご):安政5年の干支が戊午(つちのえ・うま)であったことに由来。
(注2)「密勅」:水戸藩にも出されたので密勅。

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3.安政の大獄
○安政5年(1858)9月から大弾圧開始…上洛した間部老中が指揮
9月17日:梅田雲浜(うんぴん)(尊皇攘夷の志士の領袖)、鵜飼父子(密勅の交付に関係した水戸藩士)、小林良典(よしすけ)(鷹司家の家司)らを捕縛
10月24日…間部老中、入京して37日を経て、参内。四度参内して、繰り返し条約調印の経緯を語る。朝廷が拒否の態度を示すたびに、勅許に反対する廷臣の家来の捕縛が進む。
12月30日「氷解沙汰書」(孝明天皇)「近い将来(七・八から十年)での鎖国の復帰を条件として、条約調印の経緯についてはこれを了解する」
安政6年(1859)の処罰者(*右上の資料を参照ください。) 
継嗣問題の発生、条約調印の反対、戊午の密勅の交付は、井伊の幕政からすれば、伝統の統治秩序の紊乱(びんらん)であった。→当面の措置(秩序の復旧)は粛清に向かった。…幕府の強硬な意向を受けて、天皇の名で朝廷の廷臣への処分が始まった。あわせて12名が対象。鷹司政通ら四名は、落飾(頭髪を剃り出家)・慎みの処分。…幕府によって処罰されたものは69名(死に処せられたのは8名−鵜飼父子、越前藩士橋本左内、長州藩士吉田松陰ら)。
*水戸藩密勅返納問題…井伊は水戸藩に密勅返納を命じる(12月25日)。→水戸藩内はこの問題で深刻な内部対立。やがて、水戸藩は失速していくことになる。(幕末まで、密勅は水戸藩に保存)

◆桜田門外の変
1860年(万延元年)3月3日、雪の降る桜田門外で、登城途中の井伊直弼が水戸浪士と薩摩浪士に暗殺される。(直弼享年46歳)…個人の暗殺がこれほど影響力を持った事件は、他に類を見ることは稀である。→この事件を直接の契機として、幕藩体制の崩壊は急であった。
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2013年もあと数日になってまいりました。
来る年の皆様のご健勝とご多幸をお祈り申し上げます。
平成25年12月27日 南河内シニア文化塾 事務局 常本知之