『古文書からみた上杉謙信』

(%緑点%)後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全15回)の第15回講義の報告です。
・日時:1月28日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:古文書からみた「上杉謙信」
・講師:天野 忠幸先生(関西大学非常勤講師)
———————————————
**上杉謙信「略歴」 **[1530年(享禄3)〜1578年(天正6)]
・別称:虎千代・長尾景虎・上杉政虎・上杉輝虎・関東管領
・1530年(享禄3):越後守護代・長尾為景の男児(虎千代)として生まれる。14歳景虎を名乗る。
・1548年(天文17)(19歳):越後国春日山城に入って家督を継ぐ
・1551年(天文20)(22歳):長尾景虎、越後を統一
・1553年(天文22)(24歳):上洛。後奈良天皇、足利義輝(将軍)に謁す
・1561年(永禄四):長尾景虎、関東管領職と山内上杉氏の家督を継ぐ(上杉政虎を名乗る)
・1578年(天正6):(49歳)春日山城内で逝去
◆【川中島の戦い】(1553年〜1564年)武田信玄と約12年にわたって5回の戦い。
◆【甲相駿三国同盟との戦い】(甲斐・武田氏、相模・北条氏、駿河・今川氏)
◇「武神・毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗にも「毘」の文字を使っている。」、「1553年上洛したが、従五位に任じられた御礼で、越後の支配者として権威づけのため必要であった。」、「その生涯で約70回もの会戦を行い、大きな戦いでの敗戦は一つもない。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(%エンピツ%)講義の内容
《講義の古文書(8つの書状)から、下記の3つの書状を抜粋。》
「後奈良天皇女房奉書」(『上杉家文書』(国宝) *右の資料を参照
これは、後奈良天皇に仕えた女房が天皇の意志を受けて発給した奉書で、謙信が上洛(1553年)して、天皇と対面したお礼が述べられています。
・(要約)「先般、長尾景虎(謙信)が天皇に謁見されたとき、剣とお酒を下さり、京都に長く滞在し、天皇に忠義を尽くし、天皇は感動されておられました。よくよくお伝えください。」ー(覚えめでたき謙信)
(注1):差出人は、天皇が、直接、謙信に手紙を出すには、身分が違いすぎるので、天皇に仕えている女房が受けたまわって、「伝奉書」を出した。宛所は、広橋中納言と書いてあるのは、武家伝奉役の広橋国光が、自らの添状とともに謙信へ取次ぐ。
古文書メモ①書状に「ひらがな」が入っており、末尾に「かしく」と書いてある(女性が書いたもの)。②差出人(天皇).がかなり身分が高い場合は、差出人は書かない場合がある。

「上杉謙信感状写」(『歴代古案』) *右の資料を参照
これは、政虎(上杉謙信)が、多くの部将に発給している感状で、部下に最大級の謝辞をのべている。
・(内容)「去る十日、川中島で、武田晴信(進言)との一戦では、粉骨をして無類のない働きで、数千騎を打ち取り、本望を遂げた。この忠義に対して、謙信が生きているときは、絶対に忘れない。これからも忠信を。」
(注1):第四回川中島の戦い(九月十日)の直後に出した、差出人:政虎〈謙信)、宛所:安田治部少輔への感状。政虎は、同年三月に関東管領職と上杉家の家督を継ぎ、社会的地位は大きく上昇しているので、目下として書いている。
古文書メモ①「宛所」の書き方…○月○日と日付を書いた後で、○月より高い位置から宛所を書き始めるのが 厚礼な書式。○月の月の数字と同じ高さから書き始めれば対等の位置、それよりも低い位置から書き始めれば目下宛てということになる。②書止文言(かきとめもんごん)…本文の末尾をどのような文言で終えるか。目上には「恐惶謹言」、対等な相手には「恐々謹言」、目下には「謹言」。

「徳川家康書状」『上杉家文書』 *右の資料を参照
徳川家康が、上杉謙信宛てに出している起請文。
・(内容)「上杉と徳川が表裏なく協力して、武田信玄を封じ込めて行きましょう。また、信長と謙信は仲がよい。武田と織田との縁談をやめるように、家康から信長に諫言しましょう。」
・日付(十月八日)の十月の左上に上杉殿が書かれているので厚い礼の書式。起請文の書き止めは、礼の厚薄に関係なく「仍如件」(よってくだんのごとし)が基本。
古文書メモ起請文…「誓詞」「誓句」などとよばれ、神々の前で誓約する内容を書き記す文書をいう。神々の名前が書き連ねられる。前文に偽りがあれば、神々の罰を蒙るという罰文は、梵天・帝釈・四大天王ではじまることが多く、「惣而(そうじて)日本国中之大小神祇」や八幡大菩薩といった神々の名前が書き連ねられていく。→この罰文にある伊豆山神社・箱根権現・三嶋大社は、源頼朝以来、関東武士に重んじられた神社であることから、家康が謙信に譲歩する姿勢がみられる。②牛玉宝印(ごほうほういん)…この起請文につかわれている料紙は特殊なもので、木版刷りの護符(ごふ)で牛玉宝印という。この牛玉宝印を裏返して、白紙の裏側に起請内容を記す。

**あとがき**
(右の写真は、「家康の起請文」を裏から見ているところです。)
・当時の身分・権威…「天皇」−「将軍」−「管領」−「守護」−「守護代」−「国人」←上杉謙信は守護代からスタート。
・上杉謙信が軍神として崇められるのは死後で、生前は領主の反乱が続発、天皇や将軍の権威でなんとか編成していた。
・戦国大名は、単に戦争だけをやっていたわけではない。当時の身分・権威を見ながら、和睦や軍事同盟、領土交渉という「外交」を活発に行って戦国時代を生き抜かんとしていた。

*************************************************************************
(%緑点%)平成25年度後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全15回)は、1月28日で終了しました。
講師の先生並びに受講生・聴講生の皆様に、厚くお礼申し上げます。
*************************************************************************