「古代の相撲とその起源」

(%緑点%)平成26年前期講座(歴史コース)(3月〜7月:全15回講義)の第一回講義の報告です。
・日時:3月11日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:古代の相撲とその起源
・講師:平林 章仁先生(龍谷大学教授) 
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(%エンピツ%)講義の内容
1.相撲の起源

『日本書紀』垂仁天皇条
(1)野見宿禰と當摩蹶速の相撲
*日本書記にみえる垂仁(すいにん)天皇の代の野見宿禰(のみのすくね)と當摩蹶速(たいまのけはや)の対戦が相撲の最初とされる。(*右の資料を参照)
【要約】「垂仁紀七年七月七日に、當摩邑の力士(ちからびと)當摩蹶速と出雲国の勇士(いさみびと)野見宿禰が相撲をとったという。二人相対して、各(おのおの)足を挙(あ)げて相蹶(あひふ)む(四股を踏む)。野見宿禰が勝利して、當摩蹶速の地(ところ)を奪(と)りて、悉(ことごとく)野見宿禰に賜ふ。」

(2)相撲と土師氏と喪葬(野見宿禰と喪葬)
*野見宿禰は、土師氏の始祖(*右の資料を参照)
【要約】「垂仁紀三十二年七月、皇后日葉酢媛(ひはすひめ)命がなくなり、その葬儀に際して垂仁天皇は殉死をやめたいと思った。そこで野見宿禰は、出雲国の士部(はしべ)百人を呼び寄せて「埴輪」(埴(ねんど)を取りて人・馬など種種の者の形を造形)を製作し、皇后の墓に立てならべて殉葬に代えた。天皇は野見宿禰の功績を褒めて、土師連(はじのむらじ)の姓と新しい拠地を与えた。」
◆野見宿禰は、土師連の始祖であり、彼らが天皇の喪葬をつかさどることの起源である。→大和王権内での土師氏の主な職掌は、殯(もがり)など喪葬儀礼の執行、古墳の築造と管理、埴輪の生産と墳丘の樹立、土師器の生産と貢進など、王権内で大王や王族らの喪葬の万般をとりしきる氏族であった。

2.宮中の相撲節
*奈良時代になると、七月七日に宮廷で相撲節が催された。(*右の資料を参照)
【要約】「『続日本紀』養老三年条では、抜出司(力士をあつめる役)がはじめて設置された。…『続日本紀』神亀五年条では、相撲人の貢進を諸国に命じ、その後、七夕の儀式に天覧相撲を実施した記事が続く。→おそくとも神亀五年(728年)までには、相撲節が年中行事になっていたことがわかる」。
平安時代の相撲節の次第
・天皇と貴族官人たちが着座して観覧。全国から貢進された相撲人は、左右から一人ずつ出て、計二十番の勝負を行う。勝ち方は、乱声(らんじょう)をあげて舞う。

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***まとめ***
①高句麗の墳墓の壁画に、相撲の場面を描いたものがある。日本では、古墳時代の埴輪・須恵器に力士像がある。[相撲は、ユーラシア大陸の系譜を引く説あり。高句麗は扶余族(遊牧騎馬民族)。−野見宿禰は出雲国出身で、大陸との関連が近い。]
②日本書紀にみえる垂仁天皇の野見宿禰と當摩蹶速の対戦が相撲の最初とされる。→野見宿禰が土師連の始祖→大和王権で大王や王族の喪葬専掌氏族
③喪葬と相撲
・相撲で、四股(しこ)を踏む。⇔地面にも神様がいて、地霊が鎮まってくれるように、地面を踏む。・・・災禍の原因となる死者の荒魂や悪霊を鎮め追い払うために相撲が行われたという説がある。
④奈良時代になると、各地から相撲人(すまひびと)が集められ、節会相撲が行われるようになり、宮中の儀式として年中行事となった。
・相撲節は宗教的儀式の色彩が色濃い→儀礼的な悪魔払いの行事?
⑤七夕(七月七日)に、なぜ相撲節会が催行されたのか?・・・いまだに謎である。