『西鶴を読む』〜人を呪わば〜

(%紫点%)H26年前期講座(文学・文芸コース)の第3回講義の報告です。
・日時:3月20日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:西鶴を読む〜人を呪わば〜(『武道伝来記』)
・講師:高橋 圭一先生(大阪大谷大学教授)
————————————————
◇右は、西鶴肖像画(芳賀一晶筆)−井原西鶴(1642〜1693年)。
*高橋先生の講義『西鶴を読む』は、今回で第4回です。
第1回(H23年3月)『世間胸算用』〜今も昔もお金の苦労〜
第2回(H24年3月)『万の文反古』〜京都(みやこ)に美女は多けれど〜
第3回(H25年3月)『武道伝来記』〜天晴れ、若衆の敵討ち〜
————————————————
◆『武道伝来記』
・貞享四年(1687)4月に刊行。八巻八冊、全三十二話からなる短編小説集。諸国の敵討(かたきうち)を描いた、西鶴の武家物の第一作。首尾よく敵を討つ成功譚ばかりではなく、返り討ち.にあったり、敵討ちと認められず処刑になったり、また相打ちになったり、と種々様々である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(%エンピツ%)講義の内容
○「毒薬は箱入りの命」(『武道伝来記』巻一の二)
(あらすじ)
1.物語の前半(奥州福島藩の橘山刑部は、智仁勇を兼ね備えた、25歳の頼もしい侍。妻が亡くなり、女中をめぐる物語。)
「刑部に男の子が生まれたが、妻は産後の肥立ちが悪く亡くなった。刑部は愁いに沈み、喪に籠もる。・・・ようやく日数も経って、四十九日の忌も明けたので、御前に出仕。しかし、刑部は亡き妻のことが忘れられなかった。・・・刑部の家来は相談して、せめて気晴らしになろうかと、艶女を呼んで色っぽい風情をさせたが、見向きもしなかった。・・・(ある夜)瑠璃灯がゆらいでいた。刑部は”誰か、はずせ”といって、野沢という女が、それを取りはずした。その後ろ姿が良い立ち振る舞いであった。刑部は、つい心がひかれ、後ろ帯の端をとらえて、「話がある」と言葉をかけたが、野沢は逃げて行った。女中頭が気を利かせて承知させようとしたが、「今日はお母様の命日ですからと」と言って承服しなかった。・・・それをもどかしく聞いていた小梅という女が、「野沢どのの帯をお返しください」といって、遠慮なく主人(刑部)に近く寄っていった。タイミングよくこの女も美しく見えて、この帯が縁の結びとなって、人の恋を盗んでしまった。しかし、小梅はだんだんわがままになって、刑部もこの女をうるさく思うようになり、初めての野沢の方に心を移されてしまった。」→「小梅は妬んで、神木に.釘を打ち、人像(ひとがた)を作って山伏に祈らせたり.したが、神仏に聞き入られず、かえってその身がとがめられた。なおも、小梅の執念は激しくなって、菓子に劇毒を仕込んで、野沢に贈った。それとも知らず、野沢は、女中仲間にお茶の御馳走に出したところ、七人の女中は死んだ。小梅一人が生き残ったので、毒薬を盛ったことが露見した。」→牛割(うしざき)にしてもあきたらないやつだと、「松の木で箱を作らせ、小梅を中に入れ、毒殺された女どもの親兄弟を呼びよせ、小梅の身体に隙間なく釘を打たせた。」

2.物語の後半(小梅の弟・九蔵、家中一番の鉄砲の上手・後藤家の森之丞、市丸殿(刑部の男の子))
「小梅の弟は浅草住んでいた。このことを聞いて、姉(小梅)の罪科は考えず、敵(かたき)は主人の刑部だと思い詰めて、奥州に行った。小間物を仕入れて武家屋敷に出入りしたが、空しく月日が過ぎた。翌年の二月末に、行先を見届け、こっそり刑部の後ろに立ち回り、名乗りもかけずに斬りつけた。刑部は体をかわし、脇差で斬りつけところ、逃げだしたが、刑部の子供・市丸殿を奪い取って、米蔵の中に逃げ込んだ。」→「鉄砲の上手、後藤家の次男で.森之丞という十五歳の若者が、九蔵を目当てに弾丸(たま)を打ち、九蔵の腕首を打ち落とした。・・・「それ」という声に、みんなどっと駆け込んで、市丸殿を無事に抱き取った。九蔵はその場で切り裂かれ、元の形はたちまちなくなってしまった。」
・(注)小梅の弟・九蔵は、敵討ちと思っているが、敵討ちとしては成立しない。
・(注)敵討ちは名乗って相対するが、後ろに立ち回り、名乗りもせずは「卑怯」。

3.後日譚・敵討ち成功…「市丸殿も十四歳となり、森之丞の活躍で危い命を助けてもらったことを知り、兄分になってもらった(衆道関係になる。)→「森之丞の兄の敵討ちの物語(市丸の助太刀)」。
・(注)刑部と九蔵は、敵討ちではないので、西鶴は、正当な敵討ちの話(後日譚)を付け加えた。
・(注)兄分(=衆道関係における年長者)…男色(衆道)は、近世中ばまでアブノーマルではない。

**あとがき**
(1)浮世草子…俗文学の中に「雅文学」(和歌・漢詩)を入れるのが良しとされた。
(例)「命もつなぎかねたる船の、行水に数の思ひをなし・・・」
①「命を論ずれば 江の頭(ほとり)に つながざる船」(『和漢朗詠集』無常)
②「行く水に数かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり」(『古今和歌集』)(はかない意)
(2)この物語の前半は女性が前面、後半は男性が前面にでている。
(3)この物語は、敵討ちではない。…小梅の弟・九蔵は敵(かたき)討ちと思っているが、敵討ちとして成立していない(小梅は罪人。刑部には小梅を処刑する権利がある。)…『武道伝来記』は、全てに敵討が描かれるので、西鶴は、終章に後日譚として「敵討ち成功の話」を入れている。
・(注)江戸時代、敵討ちは制度として認められていた。…直接の尊属を殺害した者に対して、敵討ちするのが当然と考えられていた。
(4)惨忍な場面が書かれている。(小梅の処刑。小梅の弟の処刑)…惨忍な気風が残っていた当時においては、こういうことも平気で行われたのであろう。しかし、事実を忠実に報告したものではなく、西鶴の潤色が少なからず加えてある。