「時実新子・その愛」

(%紫点%)前期講座(文学・文芸コース)の第7回講義の報告です。
・日時:5月15日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:時実新子・その愛
・講師:平井美智子先生(大阪市生涯学習インストラクター)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**時実新子(ときざねしんこ)の略歴**
(右上の写真が時実新子さん。2011年、徳島県立文学書道館で開催された「川柳作家 時実新子展」で作成されたパンフレットの表紙の写真から)
・1929年岡山市生まれ。17歳で結婚。25歳で新聞に投句から川柳を始め、63年、初の句集『新子』を自費出版。その奔放な詠みぶりは川柳界の与謝野晶子と呼ばれた。87年、夫ある女の恋を詠んだ句集『有夫恋』がベストセラーになる。95年、阪神・淡路大震災後、句集『悲苦を超えて』を発表。96年、「時実新子の月刊川柳大学」を創刊。川柳選者やエッセイストとしても活躍。2007年に生涯を閉じる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(%エンピツ%)講義の内容〜『時実新子・その愛』〜
〈夫への愛〉(抜粋)
★「まじまじとみつめてこの人も哀し
夫の顔を真正面から見る。穴のあくほどみつめる。「どうしたんだい」「どうもしない。わるかったわ私」「いいんだよ夫婦じゃないか」…ほんとに哀しい。
★「愛そうとしたのよずっとずっとずっと
私がどんなにあなたを愛したか、いいえ、もっと正直に言えば愛そうとしたことか(でも駄目だった、皮膚がきらい)
★「現実はあなたの膝にあなたの子
★「茶碗伏せたように黙っている夫

〈娘・息子への愛〉(抜粋)
★「おまえはいい子あやまることはありません
そう言いながら私は子供を育てた。私に比べるとき、どのような行為も許せた。
★「生んだ覚えのある子が敵になって行く
「ママはパパを愛していないのに、なぜ私を生んだの?」キラキラ光る娘の目。「あんたには他人だろうけど、私とパパは血がつながっているのよ」と彼女は言った。
★「お嬢さんをくださいと言う何を言う
★「雑踏にむすこの肩のなつかしさ

〈父への愛〉〈母への愛〉(抜粋)
★「三十をいくつ過ぎたと父が訊く
父と歩いた記憶は朝が多い。朝桜の下、朝の浜辺、モーニングコーヒーの窓。「三十をいくつすぎた」は不意打ちでおどろいた。父はあの日、自分の老いにふとけつまずいたのだろう、多分。
★「親があり向う岸にも灯がともる
死んでから母はずいぶん身近になった。草の露をふんで墓にぬかずく。「おかあさん」と声に出す。あのこともこのことも忘れたの、もう母は何もいわない。
★「ひと言も言わずに母は粥を煮る
★「花咲けば父花散れば母の事

〈恋人への愛〉(抜粋)
★「妻をころしてゆらりゆらりと訪ね来よ
恋するものの開き直りであろう。妻を殺してその手で私と刺し違えられようぞ、魂は私の恋するもとへゆらりゆらりと訪ねてきて欲しい。いいかえれば、妻を殺して私のもとへ訪ねて来ることができますか?と。生死をかけた恋の覚悟を問うているのである。
★「菜の花の風は冷たし有夫恋
そして私も別居中の夫が居ることを彼にかくしている。関係ないと思うし、いづれ別れるのだし。でも、この風の冷たさ。恋とは嘘をつくことか。
★「手がすきでやがてすべてが好きになる
★「じんとくる手紙を呉れたろくでなし

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
***あとがき ***
○「左足少し短いだけなのに」(平井美智子句集『なみだがとまるまで』より)
平井先生の句です。時実新子さんは「この句を見たときにやっと彼女がここまで強く言える強さを持ってくれたと思って涙が止まりませんでした。この句からは言外にこれだけのことを言わなければならないかという女性のつらさと負けん気が感じられます。明るく言っているだけに胸に迫ります。彼女はこの一句から脱皮した。」
◇「珠玉にして匕首(あいくち)の句集」(田辺聖子)より(抜粋)
「新子(と呼ばせて頂こう)の句は、はじめてお読みになったかたは、「え?これが川柳?」と驚かれるかもしれない。川柳というよりは、一行詩ではないか、と。新子は、その主宰する柳誌『川柳展望』でも言っているが、五七五の定型を尊重する。五七五のリズムが一行詩に生命を吹き込み、軽やかな足取りをもたらす。…(以下省略)」