(%緑点%)前期講座(歴史コース)の第9回講義の報告です。
・日時:5月27日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:鑑真渡海の道
・講師:加藤善朗先生(京都西山短期大学教授)
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(%エンピツ%)講義の内容
〇鑑真−中国仏教界屈指の人物
・688〜763年。奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。
・鑑真は、中国中部の揚州江陽県に生まれ。姓は淳于(じゅんう)。揚州、大雲寺の智満禅師について出家。その後、長安に入り、律宗・天台宗を学ぶ。やがて揚州に帰って、とくに戒律を教授し、その名声を高める。「淮南(わいなん)の地にあって、独り化主(けしゅ。教えの主)」たり」と称され、中国仏教界における屈指の人物であった。
〇日本留学僧との出会い[栄叡(えいよう)・普照(ふしょう)]
・揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧栄叡・普照らから戒律を日本につたえるように懇請された。←鑑真は、当時、日本の仏教界が招聘できるような僧ではなかった。(栄叡・普照もそれを期待していなかった。)
・日本への渡海の懇請をうけた鑑真は、弟子たちに呼びかけたが、一座は静まり返りました。しばらくして弟子の祥彦(しょうげん)が進み出て「日本は大変遠く、渡航しても命が助かるのは難しい。百人に一人もたどりつく者はない…」。そこで、鑑真は、「おまえたちがいかないのなら私がいこう」。それを聞いた祥彦もまた、師の行くところに随っていきたいと述べた。(弟子17名が随行)。予期しない事態の変化に、栄叡・普照は感涙にむせんだ。
〇5回の渡海失敗の末に渡日(相次ぐ不孝からついに日本へ)
**5回の失敗といっても、全てが海の遭難ではない。自然現象(暴風、風待ちなど)、役人への密告、海賊などとの交渉(護衛の依頼、交渉期間にかなりかかるなど)。また、唐の律令は許可なく国境を越えることは禁じていたから、渡航は密出国。
・1回目…最初の渡海計画は743年夏(鑑真56歳)。渡海を嫌った弟子が、港の役人に「日本僧は実は海賊だ」と偽りの密告により、日本僧は追放され、鑑真は留め置かれた。
・2回目…744年1月、激しい暴風に遭い、戻らざるを得なかった。
・3回目…出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕される。
・4回目…この時も鑑真の弟子が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人に訴えて、出航が差し止め。
・5回目…748年、栄叡が再び大明寺の鑑真を訪れて、懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。6月に出航し、船山諸島で数か月風待ちした後、11月に日本へ向かい就航したが、激しい暴風に遭い、遥か南方の海南島に漂着。(鑑真は、海南島に1年滞留し、数々の医薬の知識を伝えた。そのため、現在でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている。)
*《あいつぐ不孝》:751年、栄叡の病没、このころ鑑真は両目を失明。弟子の祥彦の死。
・6回目(渡日)…753年に遣唐使が帰日する際、揚州の当局が遣唐使船の捜索に入るという情報が入り、大使の藤原清河は鑑真らの同乗を拒否。そのとき副使の大伴古麻呂は密かに鑑真を乗せた。11月17日に遣唐使船が出航。ほどなくして暴風が襲い、南方まで漂流したが、12月20日に薩摩坊津の秋目に無事到着し、実に10年の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は渡日をはたすことができた。
〇鑑真が日本に伝えたもの
★「授戒」…日本に正式な戒律を伝えた。
★「天台宗関係の典籍」…日本に多くの天台典籍をもたらした。鑑真和上の入滅から3〜4年後に生まれた伝教大師最澄(762〜822年)はこの典籍を読んで天台法華教学に目覚め、後に入唐して天台仏教を日本にもたらす。(天台宗は、日本の仏教諸派の母胎となり、法然・親鸞・道元・日蓮といった宗教者を輩出したが、その源に鑑真があった。)
★「仏舎利」…日本に仏舎利をもたらした。(本来は、釈迦の遺骨ですが、信仰の対象になって、実際には貴石やガラスなどがほとんど。)
〇鑑真和上像(なぜ、これほど精巧な像が造られたのか?)
・鑑真は、唐招提寺で、天平宝字七年(763)5月6日、76歳で生涯を閉じる。
・鑑真は、日頃、弟子に「もし私が亡くなれば、座して死せんと願う。」(唐代では、肉親像の信仰が流行っていた。臨終に当たり結跏趺坐して、ミイラになる座亡は高僧たる条件の一つと考えられていた。)
・『東征伝』(鑑真の伝記。779年、淡海三船著)に描かれた臨終の姿
「結跏趺坐し、西に面して化す。三日間も頭頂が温かい。これによって久しく棺に納めず。・・・」(棺に納めなかったのは、弟子たちが肉親像作りに努力していた証拠であるかもしれない)。
・鑑真和上像は、やがてなくなろうとする師匠の姿をそのまま留めて置きたいという弟子たちの気持ちから生まれた。睫毛(まつげ)や大きな耳の耳毛など、頭部にリアルな描きこみがされている。
〇俳人芭蕉
貞享五年(1688)春、松尾芭蕉は唐招提寺を詣で、和上像に拝して、句を詠んでいる。
*『笈の小文』より…「招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目(おんめ)のうち潮風吹き入りて、終(つい)に御目盲(しひ)させ給ふ尊像を拝して」と書き、
「若葉して御目の雫(しずく)ぬぐはばや」