(%緑点%) 前期講座(歴史コース)の第10回講義の報告です。
・日時:6月3日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:高地性集落と激動の弥生列島
・講師:森岡秀人先生(日本文化財科学会評議員)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇高地性集落の定説
・農耕を主たる生業とした弥生時代は、水田経営の必要性から居住域を低地に求めた。しかし、中期ごろから、低地とは別に丘陵地や山地など、当時の生活では不適と思われるような高所にムラを営みようになる。
(注)【環濠集落】…弥生時代の集落遺跡は、深い濠や柵をめぐらした環濠集落が主たるものであり、これらは水田経営の必要から低地に形成された。
・高地性集落は、瀬戸内から近畿にかけて分布の中心を持ち、一部例外を除き、弥生時代の中期から後期にかけて出現し、弥生時代終焉とともに姿を消す。
・その性格は、中国史書の倭国動乱の記事に関係づけて、軍事的・防御的集落あるいは見張台とする意見が一般的である。
〇高地性集落研究の最近の動向
(1)右の資料は、瀬戸内海(香川県三豊郡詫間町・三崎海岸)の紫雲出山遺跡(しうでやまいせき、標高約350m)で、弥生時代の主な高地性集落。出土遺物《石鏃(いしやじり)》が多く出土。→昭和40年代前後から、大阪湾沿岸から瀬戸内にかけての眺望にめぐまれた山頂や尾根斜面など代表的な高地性集落が発掘例が増加した。この段階で大阪府観音寺山遺跡の調査を契機として、軍事的集落説を容認する方向へと進む。
(2)昭和50年代には、「地域的な集落構造の比較」、「出土遺物組成の違い」、「前期古墳との継承関係」など高地性集落をめぐる議論は多様化する。…さまざまなタイプが判明。(例)「山棲みの集落」、「隠れ里の集落」、「マーケット的な交会地集落」など。
(3)さらに、昭和終盤期になると北陸や北関東でも高地性集落の遺跡が発掘。→近畿で高地性集落が衰退し始めると弥生時代末期以降のものは、分布の中心が北陸の能登、越中、越後に移り、山元遺跡(新潟県)は、列島の北限である。
(注)北関東の研究者に、「高地性集落」という用語が通用するのだろうか。日本列島にはそれぞれ地域性があり、高地性集落の出現や消滅にも大きな地域格差が見られ、列島各地の社会進化も並行的ではない。→個別地域を重視して高地性集落を再点検する必要がある。
〇まとめ
◇「高地性集落」という学術語は、遺跡(実体)と歴史(上位概念)の中間にあるミドルレンジ・セオリーである。(中位理論=結論に到達する以前の用語)
・高地性遺跡から、倭国乱⇔石鏃・石剣などの武器の発達や防御施設の盛行⇔高地性集落の在り方、というように相互に関連付けられていた、中国史書の倭国大乱との年代観もストーリーであった。
・倭国大乱を二世紀半とする中国史書の記述に対し、科学的年代観による見直しで、会下山(えげのやま)遺跡(兵庫県芦屋市)の存続期間も紀元前二世紀から紀元一世紀というように、大幅に繰り上がるとみられ、高地性集落の年代や性格をどのように考えるかという問題が生じている。
◇高地性集落には、「戦い」だけではなく、物質文化が先取りして入って来ている。
・1990年前後から、環濠を持った大規模な高地性集落の発掘が急増する。これらの遺跡からは初期の倭製銅鏡や中国鏡片が出土。平地の中継集落を介在しない直接的な交易が窺える。高地性集落は戦争目的だけではなく、交易の拠点として利用したような気配がある。
◆多くの高地性遺跡の発掘例を見ると、従来いわれているような倭国大乱に関連付けられるような、実戦の形跡は少なく、むしろ長距離交易品の集散地拠点機能、地方の関門的な場所や展望の良い立地に設けられ、陸海・河川交通の監視・連絡の拠点となっている機能に留意する必要がある。
◆高地性集落は、前期古墳と無関係ではない。弥生人はよく土地を知っている。高地性集落の建設地点あとに前期古墳は造られた。(森岡先生)
—————————————
***あとがき***
森岡先生の講義のレジュメは、いつも豊富である。今回は、A3の用紙で20頁の大作で、詳細なデーターと最新の情報が満載。…しかし、あまりにも情報が多すぎて、ほとんど理解できずに2時間の講義が終了。…その後、近くのインド・カレー屋で森岡先生と昼食をとりながらの反省会?(シニアにわかりやすい講義をお願い)。次回(11月18日(火))は、同じテーマで講義。