芭蕉『奥の細道』の旅空間(三)

(%紫点%)前期講座(文学・文芸コース)の第10回講義の報告です。
・日時:6月26日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:芭蕉『奥の細道』の旅空間(第三回)
・講師:根来 尚子先生(柿衞文庫 学芸員)
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**前回までの復習**
芭蕉が門人の曾良をともなって、みちのくの旅にでたのは、元禄二年(1689)3月27日(陽暦5月16日)のこと。その時、芭蕉46歳、曾良41歳。江戸・深川から出発し、東北・北陸を巡り8月20日前後に、一応の終着地である岐阜県大垣に着いています。その間約150日、全行程約600里(2400km)の旅でした。
★第一回(2013.6.26)…《旅立ち、江戸・深川から「千住」、「草加」》
(序章)「月日は百代の過客にして、行きかふ人も旅人也」
(旅立ちの一句)「行く春や 鳥啼き魚の 目は涙」(芭蕉)
★第二回(2013.11.7)…《草加から、「室の八島」、「日光」》
(日光)「あらたふと 青葉若葉の 日の光」(芭蕉)
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〇第三回・・・日光(4月2日)から「那須野」、「黒羽」、「雲巌寺」
(一)那須野
「…近くで草を刈っている男に道案内を頼むと、”土地不案内の旅人が道を間違えるのも心配だ。それではこの馬に乗って行って、馬が止まっとところで返してください”と言って、馬を貸してくれた。幼い子供が二人、あとを追って走ってくる。一人は、かわいらしい小娘で、名を聞くと〈かさね〉という。」
☆「かさねとは 八重撫子の 名成べし」(曾良)
(意訳)(かさねという優雅な名前なのだから、花にたとえたら(花弁の重なった)八重撫子(やえなでしこ)の名であろう)−季語:撫子(夏)
【*右上は、蕪村筆「奥の細道」画巻で、この場面−芭蕉が馬に乗り、曾良が側にいて、子供が二人、追っかけている場面−を描いています。】
(注)与謝蕪村(1716−1784)は、芭蕉(1644−1694)を敬慕し、その足跡を辿り、僧の姿に身を変えて、東北地方を周遊しています。

(二)黒羽
日光を経て、那須野を横切った芭蕉は、4月3日に黒羽(くろばね)に到着。門人である黒羽の城代家老・浄法寺桃雪、弟の桃翠の温かいもてなしを受け、13泊する。その間、兄弟宅を拠点とし、周辺の名所旧跡を訪ねたり、句会の席を催した。「…修験光明寺という寺がある。そこに招かれて、高足駄の役行者の祀られている行者堂を拝んだ。」
☆「夏山に 足駄を拝む 首途哉」(芭蕉)
(意訳)(新たに旅立つ心境で足駄を拝み、役行者の健脚にあやかろうという句。芭蕉の憧れの【白河の関】にいよいよこれから向かっていく首途(かどで)だなという感動をうつしている。)−季語:夏山(夏)
(注)黒羽には、もっとも長い、13日間の長逗留している。→(雨降りの日が多かったこと、風流人が多いこと、などが長逗留の要因)

(三)雲巌寺
芭蕉は深川の臨川寺で禅を学んだ仏頂和尚が修業時代に山居していた雲巌寺(うんがんじ)を尋ね、即興の一句を書きつけ、庵の柱に残してきた。
☆「木啄も 庵(いほ)はやぶらず 夏木立」(芭蕉)
(意訳)(夏木立の中に往時のおもかげを目の当たりにして…仏頂和尚の威徳のため、木啄(きつつき)もさすがにこの草庵だけは破らなかった。)-季語:夏木立(夏)
*右は、芭蕉自筆の「木啄も」句文懐紙です。
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**あとがき**
・「曾良旅日記」は、150日に及ぶ、この「おくのほそ道」の日々の天候・行程・見聞・動静などを克明に記録。芭蕉の『おくのほそ道』という紀行文が、実際の旅で経験した事実とはかけ離れた文学作品として書かれたものであることが明らかになった。→今日の講義で取り上げられた「黒羽」には13日逗留しているが、芭蕉は2週間分をまとめて書き、名前をわざと間違えて書いたりしている。また、雨がよく降ったことは何も書いていない。
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*次回−芭蕉『奥の細道』の旅空間(四)(ご案内)
・日時:10月30日(木)午後1時〜4時(講義と芭蕉特別展の見学)
・会場:柿衞文庫(伊丹市宮ノ前)