「古代山城と対外政策」

(%緑点%)前期講座(3月〜7月:全15回)の第13回講義の報告です。
・日時:7月8日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:古代山城と対外政策
・講師:佐藤興治先生(奈良文化財研究所名誉研究員)
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1.古代山城の時代背景
・日本列島と大陸(中国・朝鮮)とは、7世紀初頭の頃までほぼ平和的な交流が存続していた。
・7世紀後半に入ると、中国では北方民族の侵入、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国間の抗争。→「白村江の戦い」(663年) 《倭は百済に援軍を送る(斉明天皇)が、唐・新羅の連合軍に敗れ、朝鮮半島から撤退》
・朝廷では唐・新羅の侵攻に備えるために、百済の人々の技術を用いて、対馬壱岐大宰府の防御(水城や朝鮮式山城等)を固め、瀬戸内海筋に山城・烽火を整備し、九州北部・対馬に防人を置くなど防御強化。

2.朝鮮式山城と神籠石式山城
(1)朝鮮式山城
〇『日本書紀』、『続日本紀』に記された古代朝鮮式山城で、各施設の築造指導に、百済の亡命貴族があたった。
-(右の資料):天智四年(665)、長門城の築造は、達率(たつそつ)(百済の官位の第二等)の憶禮福留と四比福夫が担当したと記されている。
-『日本書紀』に長門(山口)・大野/橡(福岡)・高安(奈良)・屋島(香川)・金田(長崎)の6城が相次いで築かれたと記録。
*標高が4〜500mの山中にあり、複数の尾根にまたがって土塁または石垣を築き、谷部には排水用の水門が設けられ、要所に城門を開き、場内には倉庫建物など。⇔これらの城の遺跡に見られる形態・構成が朝鮮半島に見られる古代山城によく類似することから朝鮮式山城と称される。
(2)神籠石式山城(こうごいししきやましろ)
・公的な記録は残っていないが、古代山城類似の遺構をいう。日本各地で16か所ほどが確認されている。(年代は朝鮮式山城よりも遡るとみられるが、建物跡や遺物の発見例が少なく詳細は不明なところが多い)

3.防御体制
(1)国境の防備−対馬・金田城(朝鮮式山城)
対馬(釜山には約40km)の中部、浅茅湾に面した標高275mの城山にある。城壁は約6〜7m(石塁で、板石の野面積)、城周は約3km、谷部の3か所には城門と水門を設けている。
(2)大宰府の防備−水城と山城(朝鮮式山城)
古代朝鮮の山城は、外部からの侵入・攻撃を受けると、山城に入って避難・防御・籠城の機能を持っている。このため、城内には必ず多数の食料貯蔵倉庫と泉水・井戸を備えてる⇒大宰府の周辺に水城(みずき)と大野城と橡(基肄)(きい)城を造営。
(3)瀬戸内海の山城(朝鮮式山城)
記録によると、瀬戸内海筋には、長門、備後、讃岐に山城を築いている。また、備後の茨城・常城は『続日本紀』に記録されている。….遺跡としては未確認。或は、全体像は不明。
(4)畿内の山城−大和・高安城(朝鮮式山城)
記録によると667年に屋島城・金田城とともに築城が.はじまり、2年後に完了し、701年に廃止。→昭和53年、高安山の尾根上(標高436m)から6棟の礎石建物が見つかり、初めて所在が確認。(しかし、石塁などの明確な城郭施設は未確認)

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**あとがき**
〇古代山城の課題(佐藤先生)
・記録にありながら未発見の山城がまだ多くある。(中世・近世にかけて、改造されているのでわかりにくい)
・神籠石式山城の調査を進めて、成立過程を明らかにする。(大規模調査になるので、費用と時間がかかる)
・山城間および国府間をつなぐ通信手段ー烽火(狼煙)-による連絡・通信網の解明。
〇古代の築造技術は、古代朝鮮式山城に見られる渡来系の石垣技術。しかし、古代と中世の城は不連続(朝鮮式山城は、8〜9世紀にその機能を終える)。大規模な城郭石垣は、安土城まで待たなければならない。
(注)朝鮮半島における山城の役割…いざとなったら、庶民も城に逃げる避難・防御・籠城の機能。戦うのは城を出て、地の利のよいところで戦う。⇔〈日本の山城には、武士のみ〉
〇古代から、東アジアの情勢は日本列島に敏感に影響(現在は竹島・尖閣の問題)。