「芥川龍之介文芸の新しい魅力」

(%紫点%)前期講座(文学・文芸コース)(3月〜7月:全13回)の第12回講義の報告です。
・日時:7月24日(木)午後1時半〜3時40分
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:芥川龍之介文芸の新しい魅力
・講師:細川正義先生(関西学院大学教授)
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芥川龍之介(略歴)
・明治25(1892)年東京生まれ。新原敏三、フクの長男。この年10月フクは発狂。フク発狂後、フクの実家である芥川家に引き取られた(1904年に養子縁組)。実母が狂人であったことは、後年の龍之介に多大の影響を与えた。
・大正2(1913)年(21歳)、東京帝大文科に入学。
・大正4(1915)年(23歳)夏目漱石との出会い。『鼻』を発表。漱石の激賞を受ける。
・大正5(1916)年(24歳)『芋粥』を発表。文壇デビュー。12月、漱石が死亡、大きな衝撃を受けた。
・大正7(1918)年(26歳)塚本文と結婚。大阪毎日新聞社の社友となる。
・大正10(1921))年(29歳)3月から7月にかけて中国視察の旅。
・昭和2(1927)年7月24日未明、睡眠薬による自殺。枕元には『聖書』が開かれていた。享年35歳。

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〇作品を読む
『羅生門』[大正4(1915)年9月](右の資料を参照)
或日の暮方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待てゐた。」で始まる。
・小説「羅生門」は、生活のために、死人の髪の毛を抜いて鬘(かつら)にしようとする老婆と、失職して行くところもなく途方に暮れる身分の低い若者(下人・げにん)とが、京都の町外れの羅生門の楼上で出会うことから生じるドラマを描いたもの。(「今昔物語集」に見られる話を題材)
・下人は、老婆の持ち出した「これをせねば餓死をするのぢやて」という生きるための論理と闘い、下人に〈新生〉を促す起爆剤を与えることになる。(下人は「餓死か盗人か」という課題と闘っていた。下人は、老婆の着物を剥ぎとった。…己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死するのだ。との下人の叫びは、老婆との格闘を通して得た、下人の実感からでたものであった。)
・末尾の文章を「下人の行方は、誰も知らない。」と改稿する。(下人の行方は読者一人ひとりの〈読み〉にゆだねられた。「羅生門」を発表した時は、不評であった,。末尾の文章を書きかえたことで、不朽の名作となった。)
『鼻』[ 大正5(1916)年2月](右上の資料を参照)
・主人公・禅智内供(50歳を超えた僧侶)が、6寸の長鼻を気に病んで、短くしたいと願い、奇妙な治療まで受け、念願を達成する。が、回りの僧侶の冷笑の止まないのを知って、なまじ鼻の短くなったのをうらめしく思う。…ある朝、鼻が再び長くなっているのに気づいた彼は、はらばれした心もちが、帰ってくるのを感じた。
・世間はどうであろうと、内供自身の心の中は自由になった(解放されたである)。
・「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」に見られる話を題材
・夏目漱石の激賞を受けた作品。
『地獄変』[大正7(1918)年](資料は省略)
・(あらすじ)高名な絵師・良秀(よしひで)と大殿の対立。良秀は、一人娘を可愛がっている。良秀は、大殿に屏風の真ん中に牛車を置き、一人のあでやかな上臈が、黒髪を乱して猛火の中でもだえ苦しんでいる姿を書きたいので、その場面を作ってほしいと大殿に申し出ていた。…良秀は、「私は総じて、見たものでなければ描けませぬ」。…大殿は、良秀の娘を牛車の中に縛めて、火を放ち、焼き殺そうとした。…良秀は、当初半ば正気を失い、「地獄の責苦」に悩むが、火が放たれるや、「恍惚とした法悦の輝き」を満面に浮かべ、眼前の景色に見入る。大殿は、してやったりという顔をしていたが、まるで別人と思われる程、顔が青ざめて、敗北者の顔になる。・・・良秀の描いた「地獄変」の屏風は素晴らしい出来上がり。が、良秀は屏風を届けた次の夜、自分の部屋で縊れ死ぬ。


「井川(恒藤)恭宛書簡』(大正4(1915)年)(右の資料を参照)
・「僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ」。求婚まで考えた吉田弥生との恋が、芥川家の反対で失恋。→両親の理不尽なエゴイズムに悩んだ芥川が、親友の井川宛てにだした書簡。
(注)井川(恒藤)恭は、芥川の第一高等学校の同級生で親友。京都帝大に入学。大阪市立大学初代学長。法哲学者。
☆ ラブレター「塚本文宛書簡」(大正7(1918)年)(右の資料を参照)
・「早く文ちゃんの顔が見たい。早く、文ちゃんの手をとりたい」。8歳年下の塚本文(ふみ)。龍之介は妹をいたわるような気持ちで塚本文に対した(右の愛の便りは、そのことをよく物語る)。
・塚本文とは1918年2月に結婚。


中国旅行記
・1921年3月から7月にかけて、上海を起点に、杭州・蘇州・南京・長沙・北京・天津などをめぐった芥川龍之介は、現実の中国をしっかりと見つめていた。
・長い間、芥川の中国行はマイナスの評価(支那の現在や将来を深く洞察していない)であったが、『支那游記』は芥川のジャーナリストとしての才能が遺憾なく発揮された作品であり、当時の書簡類を検討しても、彼は政治や社会に対して確かな見識を持っていた。(関口安義「特派員芥川龍之介」)
・中国体験は、芥川に新しい境地を与えた。(『母』『将軍』などの作品)
・旅行の無理がたたり、帰国後、健康を害し、胃腸の衰弱にため病床につく。睡眠薬を常用するようになる。

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***あとがき***
芥川龍之介の作品は、日本では教科書に教材(高校の教材として「羅生門」)として採用されている。一方、海外での人気が高く、ヨーロッパ諸国・中国・韓国などでも芥川はよく知られた作家である。芥川龍之介の魅力は何なのか。
・芥川の文学は、厭世的な側面や芸術至上の精神のみが強調され、彼の創作技法の開拓や時代洞察の鋭さは、時に否定的に扱われてきた。→だが、人間にまつわるさまざまな問題を、ことばの芸術として提示した作家も稀なのである。
・芥川は、「闘う人」である」。実生活の弱点をむき出すことではなく、歴史上の人物や市井の名もない人物に己の思いを託した。
・中国での体験を機に、プロレタリア文芸にも関心を深め、彼の社会意識は、庶民の人生に対する〈温い心〉を傾けての凝視であったのが、社会や体制における弱者である人間に対する眼差しへと展開していったということができる。(細川先生)
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・講義で取り上げられた作品・書簡・資料
【作品抜粋】
『温き心』(1911年)、『大川の水』(1912年)、『羅生門』(1915年)、『鼻』(1916年)、『芋粥』(1916年)、『地獄変』(1918年)、『蜜柑』(1919年)、『南京の基督』(1920年)、『杜子春』(1920年)、『母』(1921年)、『支那游記』(1925年)、『大導寺信輔の半生』(1925年)、『或阿保の一生』(1927年)、『歯車』(1927年)、『続四方の人』(1927年)
【書簡】
「井川(恒藤)宛の書簡}(1915年)、「塚本文宛書簡」(1917年)
【資料】
海老沢英次「芥川龍之介の人と人生」(1981年)
関口安義「芥川龍之介とその時代」(1999年)・「特派員芥川龍之介」(1997年)
細川正義「芥川龍之介『南京の基督』論」(2000年)、「芥川の社会意識」(2007年)
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