(%緑点%)H26年前期講座(歴史コース)(3月〜7月:全15回)の第15回講義の報告です。
・日時:7月29日(火)午前10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:足利尊氏と楠木正成
・講師:若井敏明先生(関西大学非常勤講師)
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**関係年表**
・1274年(文永の役)・1281年(弘安の役)…モンゴル襲来
・1318年:後醍醐天皇即位(大覚寺統)
・1324年.:「正中の変」(討幕計画がバレて失敗)
・1331年:「元弘の変」(再度の討幕計画バレて失敗。天皇は隠岐に配流)
・1332年:全国各地で討幕挙兵
・1333年:鎌倉幕府滅亡
・1333年〜1335年:建武の新政(後醍醐の独裁政治)
・1335年:「中先代の乱」(北条高時の子時行の反乱)
・1336年:楠木正成自刃(湊川の戦い)
・1338年:足利尊氏征夷大将軍。光明天皇(持明院統)の擁立(北朝)
・1350年:観応の擾乱(尊氏と弟直義の対立)
・1358年:足利尊氏死去
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1.足利尊氏と楠木正成の出自
◆足利尊氏(1305〜1358年)
・清和源氏の嫡流・源義家の系統で、下野国足利庄(栃木県足利市)の領地があり、北条氏と姻戚関係にあった。
・討幕に際して、中心的な役割を果たしたのが足利氏。
・足利高氏は、鎌倉幕府討滅の功績で、後醍醐天皇からその名・尊治(たかはる)の一字を与えられて尊氏と改名した。
◆楠木正成(1294?〜1336年)
・楠木正成は、有名だが、その系譜についてはわからないことが多い。(中世の武士は、その本領の地名を名字(みょうじ)とするのがふつうであるが、正成の根拠地・河内国の金剛山の麓の辺に、「楠木」の地名は見つかっていない。)
*本拠地は河内国…「河内国金剛山の西にこそ、楠多門兵衛正成とて、弓矢取て名を得たる者」(『太平記』)
*東大寺文書・永仁三(1295)年…播磨国大部庄で非法を働いた悪党の中に「河内楠入道」という者がおり、正成の父、またはその一族ではないかと考えられている。
*天竜寺文書・元徳三(1331)年、また、和泉国若松荘で「悪党楠兵衛尉、当所を押妨する」と記した史料もある。
*武蔵国の御家人説。
*猿楽の観阿弥と縁がある説。
(注)戦前は、後醍醐天皇に最後まで忠実に命を捧げた「忠君愛国」の鏡とされたが、戦後はゲリラ戦を戦った「悪党」の代表として位置づけられた。
2.鎌倉幕府の滅亡
・正中の変(1324年)…後醍醐天皇の討幕計画、失敗。
・元弘の変(1331)…後醍醐天皇の再度の討幕計画、失敗。天皇は笠置山に逃れる。楠木正成、赤阪城で挙兵。笠置城落ち後醍醐天皇捕えられる。後醍醐天皇、隠岐に配流。
〇反幕府の動き
・護良(もりよし)親王、吉野で挙兵。楠木正成、千早城で挙兵。
・赤松円心の挙兵(1333年)
・後醍醐天皇は、隠岐を脱出。伯耆の名和長年が船上山にむかえる。
◆尊氏の反旗(右上の資料を参照)
「将軍(=尊氏)は、隠岐を脱出した後醍醐天皇の討伐をするため西上するが、丹波国篠村(現・京都府亀岡市)反幕府の旗を掲げ、六波羅探題を攻略する。…これに呼応するように、東国では新田義貞が挙兵し鎌倉を攻略し北条高時自刃(150年続いた鎌倉幕府は滅亡)」。
3.建武の新政(1333〜1335年)
・後醍醐天皇は、天皇親政を理想に掲げ、強力なリーダーシップを発揮して独裁政治を開始した。武家政権が倒れ、確かに公家政権が復活したが、それを可能にしたのは、足利尊氏や新田義貞といった武士の力があったからであった。→天皇は、討幕の恩賞を公家に厚く、武士に薄くした。また、150年続いた武家の中心の社会的慣習を全くかえりみなかった。
・後醍醐天皇と護良親王の対立→親王の逮捕(1334年)
◆建武の動乱(右上の資料を参照)
建武二(1335)年から暦応元(1338)年に至る3年間、東北から九州まで大軍(足利尊氏・直義軍、新田義貞軍、北畠顕家軍)が短期間に動き戦った。
・「中先代の乱」(1335年)…鎌倉時代最後の得宗北条時行(高時の子)が鎌倉幕府の再興を図って信濃で挙兵し、一時鎌倉を占領。尊氏は、天皇の勅許を得ないまま、京都を発して東下、三河で直義と合流して時行の軍を遠江で破る。
・建武政権に叛旗をひるがえした尊氏は、後醍醐天皇方に敗れ、いったん九州に逃れた後、1336年再起。(「梅松論」によると正成は、後醍醐天皇に尊氏と和睦することを進言している。)
・「湊川の戦い」(1336年)…楠木正成、尊氏の大軍を迎撃。激闘の後自刃。
・「藤島の戦い」(1338年)…新田義貞、越前の藤島で敗死。
4.尊氏と直義
*右の史料は、尊氏が京都の清水寺にささげた自筆の願文。
「この世は夢の如くなり。自分の死後の幸せを祈り、自分が投げ捨てた現世の果報に代えて直義の安穏を願う。」…尊氏は自分の後世と弟・直義(ただよし)の果報を願った。ここで、尊氏は自らの引退と直義へ実権を委譲することを示している。(本心では、将軍の地位を弟に譲りたかったのかも知れない)。しかし、尊氏は引退しなかった(あるいは、できなかった。)
◆幕府の二頭政治
尊氏が主従制的支配権(武門の棟梁として傘下の武士たちと主従関係を結び、軍役などの役務を課して、軍事動員し、その功績に対して新恩所領を給付)、直義が統治権的支配権(足利氏が国家権力を掌握することによって、公家・武家・寺社、そしてその支配下にある一般民衆に対する政治支配。所領裁判をはじめとする政務一般を担当)⇒この二頭政治は、やがて深刻な対立を生じ、「観応の擾乱」に発展。
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**あとがき**(参考史料)
・『太平記』:元弘の乱から建武政権の崩壊に至る南北朝内乱の過程を描いた軍記物語。楠木正成を物語の主人公として、正成の戦いぶりを生き生きと描いている。全40巻。作者と成立時期は不詳。
・『梅松論』(ばいしょうろん):14世紀半ばころに成立した、承久の乱から室町幕府成立期を描く軍記物語・歴史書。足利氏による室町幕府創立の正当性を主張する視点から描いている。作者不詳。
・『難太平記』:「太平記」を批判した内容。今川了俊著、応永九(1402)年成立。
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(%緑点%)平成26年前期講座(歴史コース)(3月〜7月:全15回)は、7月29日で終了しました。
講師の先生並びに受講生・聴講生の皆様に、厚く御礼申し上げます。
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