宮沢賢治〜「雨ニモマケズ」をめぐって〜

(%紫点%)後期講座(文学・文芸コース)の第5回講義の報告です。
・日時:10月16日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:宮沢賢治〜「雨ニモマケズ」をめぐって〜
・講師:池川敬司先生(大阪教育大学名誉教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
宮沢賢治「略年譜」
・明治29年(1896)岩手県稗貫郡花巻町(現花巻市)に、父政次郎・母イチの長男として生れる。父の家業は質・古着商(質古着商の客である農民の貧しさを知る)。
・少年時代植物採集や鉱物採集に熱中。明治42年【14歳】盛岡中学入学。寮生活。啄木の影響で短歌を作る(文学の始まり)。大正4年(1915)【19歳】盛岡高等農林学校入学。地質学・土壌学を学ぶ(研究生として、土性調査に従事→農民の実態を知る
・大正10年(1921)【25歳】家出して東京へ。夏、妹トシの病気で帰郷。12月花巻農学校の教師となる((以後、4年余り、教壇に立つ。熱血教師)。この間、地元の新聞や同人誌に詩や童話を発表。大正11年11月、妹トシの死(信仰の理解者・同行者)。
・大正15年(1926)【30歳】農学校を退職し、祖父の隠居所であった下根子桜の家で独居自炊生活をしながら農業に従事。l農業と芸術を一体化する羅須地人協会を設立。
・昭和6年(1931)【35歳】東北砕石工場の技師となり、石灰の宣伝販売。9月東京で発熱、帰郷して病臥。11月3日手帳に「雨ニモマケズ」を記す。…晩年はながく病床に在った。
・昭和8年(1933)9月、辞世の短歌。父・母・弟に遺言する。9月21日38歳で逝去。

賢治の死後、発見された「雨ニモマケズ」手帳
*右の写真は、賢治の死後に発見された「雨ニモマケズ」が記された昭和6年(1931)に使用された手帳。病臥のままで、10頁にわたって手帳に記し、日付は「11.3」とある。
・宮沢賢治は、その生前は、ほぼ無名の作家(生前の刊行は、詩集・童話集各一つであった)。死後、草野心平や実弟・清六らの尽力で多くの人に知られるようになった。(「銀河鉄道の夜」、「風の又三郎」などの名作も賢治の死後に発表)。

詩−「雨ニモマケズ」を詠む
・「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」で始まる詩句から、病床にある賢治の健康回復への祈願がこのうたい出しに込められている。
・「慾ハナク/決シテ瞋(イカ)ラズ/イツモシズカニワラッテイル」、「一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ」などの詩句から、つつましい生活をしながら、人に役立つことをしたい(利他行)。しかし、当時決して彼に欲がなかったわけでなく、怒らなかったわけでないこと、それらさまざな事件が胸に去来していることがわかる。〈イツモシヅカニワラッテイル〉は、仏様のひとつの生き方である。
・「野原ノ松ノ林ノ陰ノ/小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ」に始まる叙情的な旋律に、再び下根子桜の独居の生活の追憶が感じられる。「東ニ病気ノコドモアレバ/西ニツカレタ母アレバ/南ニ死ニソウナ人アレバ/北ニケンクヮヤソショウアレバ」と生活の様々な出来事が書かれている。冷害、凶作などの状況の下で、農民のために、根底に、何とかしたい。
・「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」という句には、決してただ涙を流しおろおろと歩いていたわけではないが、…しかし涙を流しおろおろ歩き廻る以上の何をしとげたのか、という彼の痛恨を感じる。
・「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ」、賢治は、《木偶坊(でくのぼう)》(役立たずと自分を卑下)を理想像と見て、そういう生き方ができればよいと思っていた。
*参考文献:「鑑賞」〈日本の詩歌18〉『宮沢賢治』中村稔著(昭和43年・中央公論社)

**あとがき**
「雨ニモマケズ」をめぐる論争
昭和38年の谷川徹三と中村稔との間におこった「雨ニモマケズ」論争は有名。
・【谷川徹三ら】…「この詩を私は、明治以来の日本人の作ったあらゆる詩の中で最高の詩であると思っています。」(絶賛する意見。「人に見せるという気持ちは少しもない。全く自分のためにだけ書いたもの」。「雨ニモマケズ」は賢治の内心の祈りだった。)
・【中村稔ら】…「この詩は僕にとって、宮沢賢治のあらゆる著作の中でとるに足らぬ作品の一つであろうと思われる。」(。「雨ニモマケズ」愚作論。「賢治がふと書き下ろした過失」。「丈夫ナカラダヲモチ」のゆるやかな転調の背後に賢治の深い悲しみとやり場のない焦りをみる。)
*しかし、すくなくとも「雨ニモマケズ」は代表作であることは間違いない。
◆宮沢賢治は、詩人、童話作家、農芸化学者、農村指導者、宗教思想家。