「弘法大師の文芸②」

(%緑点%)後期講座(歴史コース)の第5回講義の報告です。
・日時:10月21日(火)午後1時〜3時半
・会場:高野山櫻池院(和歌山県高野山)
・演題:弘法大使の文芸②〜書について〜
・講師:近藤堯寛先生(高野山櫻池院住職)
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**空海(774〜835年)**
真言宗の開祖。諡号(しごう)弘法大師。俗名・佐伯真魚(まお)、生誕地・讃岐国。804年、遣唐使とともに入唐。在唐中、従来の王羲之(おうぎし)の書風をベースに時の革新的新書風を会得。806年帰国の際、典籍類を請来。その中には書に関するものも多数存する。
五筆和尚…中国・長安城・宸殿の壁に書(王羲之の書が傷んだので)を揮毫するように依頼された空海は、一気に筆を走らせた。みごとなその書きっぷりに、順宗(じゅんそう)皇帝は、篆書(てんしょ)・隷書(れいしょ)・楷書・行書・草書の五体に精通していることで「五筆和尚」という称号を与えた。

「風信帖」 (ふうしんじょう)《国宝・東寺蔵》(*右の資料を参照)
・弘仁三年(812年)ころに、空海が最澄(767−822)あてた三通の書状(手紙。風信帖・忽披帖・忽恵帖)の総称で、一通目の冒頭「風信雲書」によりこの名がある。
・王羲之の影響が強く、空海の書の中でも最も優れたものとして、今日でも書道家たちが一級の臨書(優れた古名蹟を手本にして習う)としています。

「聾瞽指帰」(ろうこしいき)《国宝・高野山金剛峰寺蔵》
空海が24歳のときに著した「三教指帰」(さんごうしいき)の草稿本で、運筆が軽快で、若々しい覇気にあふれた書と評される。

「益田池碑銘」〈国宝・高野山釈迦文院蔵〉
空海は、雑体書(ぞうたいしょ)にも精通した。雑体書とは、鳥や虫などの自然の造形を題材とし、篆書や隷書をもとに編み出された装飾的な字体で、空海は雑体書の中でも、はけ字のような味わいを持つ飛白書(ひはくしょ)を好み、益田池碑銘にその書跡をみることができる。漢文による碑文の文字は、まるで宙を飛ぶようにして遊んでいます。

[書の心得・筆を択ぶ・筆法](抜粋)(現代語訳)
空海は、書の技術に優れるのみならず、書の理論についても卓越した見識を持っていた。
・「文章を興すには、先ず気を動かすこと。気は心に生じ。心は言葉になる。耳で聞き、目で見たことを紙に書く。」(文鏡秘府論南/文筆眼心抄)
・「紙と筆と墨はいつも携帯し、感興が湧けばすぐに記録する。もし筆や紙がなければ、旅行中の考えが書き留められなく忘れ去ってしまう。」(文鏡秘府論南/文筆眼心抄)
・「筆や紙に重点をおいて書く者は、手本から離れた絶妙な書体を残す。手本通り書く者は、終日慎重に字画を調えて複写したように書く。」(性霊集四)→筆や紙にこだわる
・「筆の大小、長短、強柔、尖鋭など、文字の勢いや大小によって筆を選ぶとよい。」(性霊集四)→”弘法筆を択ぶ
・「山水の風景に思いを寄せ、強弱の書法に則って筆を運ぶ。」 (性霊集三)

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櫻池院の見学
開基は白河天皇の第四皇子・覚法親王と伝えられる。1000年近い歴史がある。武田信玄公の位牌があり、皇室と戦国武将をまつる菩提所はめずらしい。
・右の写真は、講義の終了後、上段の間の襖絵を見学しています。御嵯峨天皇(在位:1242−1246年)御幸の時、詠まれた歌「桜咲く木の間もれ来る月影に心も澄める庭の池水」が、描かれています。その時より院号を櫻池院(ようちいん)とした。
・本堂には、本尊阿弥陀如来および毘沙門天をまつる。
・本堂で、近藤住職の先導により、出席者一同、「般若心経」を2回合唱。

尚、今年、9月26日、櫻池院に明神様をお迎えして、一年間、一日一座のお勤め。お祀りしている一年間は、お灯明とお香を絶やしてはならないとされている。
*高野山では、弘法大師と共に、土地の神様である明神様をお祀りされている。