(%緑点%)後期講座(歴史コース)の第6回講義の報告です。
・日時:10月28日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:難波長柄豊碕宮の歴史的位置
・講師:市 大樹(いち ひろき)先生(大阪大学大学院文学研究科准教授)
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(%エンピツ%)講義の内容
1.乙巳の変と大化改新
○「乙巳の変」(645年 乙巳年六月)
中大兄皇子・中臣鎌足らが、宮中で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏本宗家を滅ぼした。
【背景】①当時の東アジア情勢(唐の膨張策をうけた朝鮮三国〈高句麗・新羅・百済〉の動乱。②王位継承をめぐる諸勢力の対立(山背大兄滅亡事件〈643年〉)
→皇極天皇は、軽皇子(孝徳天皇)に譲位。中大兄皇子は皇太子。初めて左右の大臣が置かれる。
○「大化改新」(孝徳朝(645−654))における一連の政治改革)
1960年代に「改新否定論」が提起。「改新之詔」の史料批判ー『書紀』編纂時の思惑(天智・鎌足の重視)が孝徳紀に反映。…しかし、幸徳朝が一連の政治改革に着手したことは否定しがたい事実。→7世紀木簡の大量出土、前期難波宮の発掘を受けて、「大化改新」再評価の動き(市先生)。
2.難波遷都の過程
◇二段階造営説(吉川真司氏)−現代の通説−
第一段階…小郡宮(子代屯倉)(645年)。子代屯倉を改作して小郡宮を造営。
第二段階…味経宮(難波長柄豊碕宮)(649年)。大化5年頃から難波長柄豊碕宮の整地と造営が開始。(*649年を重要視)
◆市先生の私見
①大化元年(645年)12月、孝徳は難波への遷都を実施。
当初利用されたのは、小郡宮(子代離宮、蝦蟇離宮)で、本来の宮ではない。その一方で、豊碕宮=「新宮」の造営に向けた動きも始まる。
*「戊申年」の年紀のある木簡が出土…前期難波宮の北西の谷筋から出土。「戊申年」は648年(大化四)に相当するので、遅くとも、648年には、前期難波宮の工事が始まっていたことになる。
②大化3年頃(647)〜白雉(はくち)2年(651)…中枢部から造られていった。最初に建設されたのが、内裏前殿→朱雀門→内裏南門。…中枢部の建設を優先させた結果、日常的に居住する施設の建設が遅れる。
③白雉3年(652)、難波長柄豊碕宮の完成。
『日本書紀』に、「宮殿之状、不可殫論」(意訳:ことばにつくせないほど偉容である。)
3.前期難波宮(=難波長柄豊碕宮)の姿
・巨大な王宮:南北約730m、東西約600m。
★内裏と朝堂院が南北にならぶ。中枢部の朝堂院は、広大な朝庭で、その内部に16棟?の朝堂が並んでいる。…朝堂院の大きさは、国家的な儀式や重要な法令の発布のたびに、臣下たちを呼び集めて朝庭に整列させ、王権の権威を視覚的にアピールする場であった。
*天皇の住まい(内裏)と政治・儀式の場(朝堂院)をはっきり分離した構造は、前期難波宮が最初であり、のちの宮(藤原・平城・平安宮など)にも採用された。
★巨大な内裏前殿と南門
★内裏南門の左右に八角建物…須弥山と霊鷲山を模した仏殿?。
★王宮のなかに取込んだ官衙(役所)…内裏東方官衙、西方官衙
4.難波遷都の目的
難波宮跡の所在地は、上町台地の北端に近いところで、大阪城のすぐ南側にあたっている。難波は、ヤマトを拠点とする倭王権の外港であって、朝鮮半島や中国との交流の玄関口であった。そこに王宮を移したことは、改新政権の政治姿勢を反映している。
*緊迫した国際情勢に敏速に対応
*権力の一元化→官僚制の整備…豪族らを大和から引き離して権力基盤を弱め、天皇に仕える官僚を創出
*聖代であった応神・仁徳の大隅宮・高津宮を継承する意識?
■652年、難波長柄豊碕宮が完成。654年、中大兄皇子は、突然、皇祖母尊(すめみおやのみこと=天皇家の女性尊長〈最も目上の人〉の意。皇極天皇。中大兄の母)・間人(はしひと)皇女(孝徳の后。中大兄の妹)を連れて、飛鳥(川原宮か)に還る。白雉5年(655)、孝徳天皇失意のうちに亡くなる。656年(斉明元年)、斉明天皇(皇極天皇の重祚)が飛鳥板蓋宮で即位。