)(%紫点%)後期講座(文学・文芸コース)の第6回講義の報告です。
・日時:10月30日(木)午後1時〜4時
・会場:柿衞文庫(伊丹市)
・演題:芭蕉『奥の細道』の旅空間(第四回)
・講師:根来尚子先生(柿衞文庫学芸員)
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*前回までの復習*
芭蕉が門人の曽良をともなって、みちのくの旅に出たのは、元禄二年(1689)のこと。そのとき、芭蕉46歳、曾良41歳。江戸・深川から出発し、東北・北陸を経て、大垣(岐阜県)に至る、約5か月、全行程約600里(2400km)の旅でした。平安時代の歌人、西行や能因の歌枕や名所旧跡をたどるのが目的であったとされる。
★第一回…旅立ち-3月27日(陽暦5月16日)、江戸・深川から「千住」、「草加」
・(序章)「月日は百代の過客にして、行きかふ人も旅人也。・・・」
・(旅立ちの一句)「行く春や 鳥啼き魚の 目は涙」(芭蕉)
★第二回…「室の八島」、「日光」
・(日光での一句)「あらたふと 青葉若葉の 日の光」(芭蕉)
★第三回…「那須野」、「黒羽」、「「雲岩寺」-(「黒羽」で13日の長逗留)
・(雲巌寺での一句)「夏山に 足駄を拝む 首途哉」(芭蕉)
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○第四回…「雲巌寺」から「殺生石・遊行柳」、「白河の関」
(一)殺生石・遊行柳(右の資料を参照)
①殺生石(せっしょうせき)(四月十九日)
・(現代語訳)「芭蕉は殺生石へ向かう。そのとき、領主の留守居役より馬でおくってもらった。馬の手綱を引くものが、「短冊をいただきたい」と願い出た。風雅なことを望むものだなと感心して、次の句を書き与えた。」
☆「野を横に 馬牽(ひ)きむけよ ほととぎす」(芭蕉)季語:ほととぎす(夏)
*(注)謡曲「殺生石」で広く知られた名所。栃木県那須町湯本・温泉(ゆせん)神社裏手の山腹にある巨石。美女に化けた妖狐が射殺されて石になったという伝説。周囲から有毒ガスを噴出し近づくものを殺したという。
②遊行柳(ゆぎょうやなぎ)(四月二十日)
・(現代語訳)「また、西行法師が「清水流るる柳かげ」と歌に詠んだ柳は、芦野の里ににあって、いまも田の畦に残っている。…ようやく今日こうして、その柳の木陰に立ち寄ったのである。」
・芭蕉が最も尊敬し慕った古人は、西行法師であった。
☆「田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな」(芭蕉)季語:田植ゑ(夏)
*(注)謡曲「「遊行柳」で有名な所。秋風の吹く白河の関を越えて奥州に入った遊行上人の前に、老人が現れる。朽ちた柳の木をみせて、昔、西行法師がこの木陰に休らい、「道のべに 清水流るる 柳蔭 しばしとてこそ 立ちとまりつれ」と詠んだ名木であると教えた、という話。
(二)白河の関(四月二十日)(*右の資料を参照)
・(現代語訳)「白河の関にやっと来て、旅の心も落ち着いた。…(平兼盛の歌)…白河の関は三関の一つであって、古来風雅を愛した文人が心を寄せた史跡である。…(能因法師の歌)(源頼政の歌)…この時期は、卯の花がが真っ白に咲いているうえに、白い茨の花が咲き加わって、まるで雪景色の白さよりも上まわっているような気持がする。」
*(注)「白河の関」を詠んだ歌
・平兼盛の歌「便りあらば いかで都へ 告げやらむ けふ白河の 関は越えぬと」(拾遺集)
・能因法師の歌「都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」(後拾遺集)
・.源頼政の歌「都には まだ青葉にて 見しかども 紅葉散り.しく 白河の関」(千載集)
☆「卯の花を かざしに関の 晴着かな」(曽良)季語:卯の花(夏)
■江戸を立ってほぼ1か月後、芭蕉は、みちのくの玄関口・白河の関に到着します。
・「奥の細道」の序章で、「…春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心を狂わせ、…」と綴られているように、古来より多くの人が歌に詠み、憧れた歌枕の地であり、芭蕉の旅の大きな目標であった。
・江戸時代、白河の関が何処か、はっきり確定していなかった。芭蕉にとっては、白河の関を確定することではなく、多くの人に詠まれた場所に、自分の身を置きたかった。
・あこがれの古跡であるのに、「奥の細道」白河の関の章段では、曽良の句を記すのみで、自分の句は残していない。
(『曽良旅日記』では、「早苗にも 我色黒き 日数哉」(芭蕉)と詠んだとある。)
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□柿衞文庫「芭蕉」展−の見学
・柿衞文庫は、開館30年と芭蕉生誕370年を記念した企画展を開催(9/13〜11/3)。
・講義の終了後、「芭蕉」展の概要説明をうけて、午後3時過ぎから、二班に分かれて、見学しました。
*右の写真は、芭蕉の直筆資料を、根来先生の解説を聞きながら見学しているところです。