(%緑点%)後期講座(歴史コース)の第7回講義の報告です。
・日時:11月4日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:西国三十三所巡礼の成立と南河内
・講師:上野勝己先生(元太子町竹内街道歴史資料館館長)
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1.西国巡礼伝承
○最古の観音霊場記〜松尾寺所蔵『西国霊場縁起』 (天文11年〈1542〉)
観音霊場巡礼がいつ頃始まったのかについては諸説伝わる。
◆大和・長谷寺の開山徳道上人(養老二年〈718〉)
長谷寺の徳道上人が病によってこの世を去り、冥府に赴いたところ、閻魔大王に招かれて次のように諭された。−日本の地には観音さまの霊地が三十三ヶ所あるので、これを一度(ひとたび)巡礼すればあらゆる罪障は消滅し、地獄に落ちることはない。だから、あなたは、今一度娑婆に戻ってこれを衆生にひろめてもらいたい−。こういって、三十三所の宝印を授けられて蘇生した。しかし、あまり普及しなかったため上人は、宝院をいったん摂津の中山寺に納めた。(中山寺は、西国三十三ヵ寺中、聖徳太子開基伝承を持つ3ヵ寺の一つ)。
◆花山法皇の巡礼(永延二年〈988〉)
・南北朝時代の中頃に、『元亨(げんこう)釈書』(虎関師錬1364年)が刊行。【花山法皇が「霊区多所遊歴」と3年に及ぶ那智山参籠】と記されている。…花山法皇の巡礼をうかがわせる。
・花山法皇の西国三十三所巡礼は、権威づけのために、後から伝承が作られた。(仏眼寺を参照)。
◆三井寺(滋賀県)の高僧−行尊と覚忠ー(11世紀末〜12世紀)(*右下の資料を参照)
三井寺の僧の伝記をまとめた『寺門高僧記』に行尊と覚忠の二人の高僧による「三十三所巡礼記」が収められている。
・行尊は、11世紀末、大和の長谷寺から巡りはじめ、宇治の御室戸寺で打ち納められているが、その間120日を要したという。…行尊は、「小倉百人一首」の中に歌が撰ばれている。「もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知るひともなし」(前大僧正行尊)
・覚忠の巡礼(1161年)は、熊野那智山から宇治の御室戸寺で、所要日数は75日である。
…行尊と覚忠により、西国札所を現在のような形に制定された。
◆花山法皇と仏眼上人の伝承を持つ仏眼寺(太子町葉室)
・『西州三十三所巡礼観音堂図記』(1454年)では、花山法皇の同道者として、初めて仏眼上人の名が登場する。
・やがて、16世紀中頃の松尾寺所蔵『西国霊場縁起』では、花山法皇の先達として、太子御廟前に出現した熊野権現の化身とされる仏眼上人が登場。→この西国巡礼を最初に行ったとされる花山法皇の先達を仏眼上人とするものが、以後、江戸時代に流布される西国巡礼縁起の主流となる。
・「仏眼寺」…『足利義満寄附状』(渡辺家史料1387年)寄附-河内国石川仏眼寺とあり、仏眼寺が存在することを実証する初期史料。
・仏眼寺を拠点とした那智山系行者は、隆盛する聖徳太子信仰へ接近を図り、仏眼上人を熊野権現の化身として聖徳太子御廟(叡福寺)へ出現させた。(仏眼寺をもとににして、仏眼上人伝承が創られた。)
2.西国巡礼について
(1)「西国」という呼称は?
都は京都で、なぜ西国か。当時の巡礼は、庶民がささえていたのではなく、僧・武士が修行としてささえている。1192年、鎌倉幕府の成立にみられるように武士が東国に移動。東国の武士による巡礼が盛んになり、坂東札所などが制定されると、「西国」の呼称がつかわれていった。
(2)現在の巡礼のルートは?(*右の資料を参照)
この順路は、東国の者が、伊勢神宮を経て、霊場を巡り、終わって信州・善光寺へ詣でるのに好都合で最短経路である。
(3)南河内の観音講
行者が西国三十三所観音霊場を33度まわる行を果たした記念碑として建立された満願供養塔(碑)が、南河内・和泉・紀ノ川流域を中心に百余基確認されている。
3.現在の「観音霊場記」(*右の資料を参照)
・『諸国霊場御詠歌萬題 全』(昭和12年初版)における現在の『観音霊場記』には、「仏眼上人を花山法皇の先達として、西国巡礼が創始された」と記されている。