『万葉集』と大伴家持

(%紫点%)後期講座(文学・文芸コース)の第8回講義の報告です。
・日時:11月13日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:『万葉集』と大伴家持
・講師:市瀬雅之先生(梅花女子大学教授)
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*前回講義(H26年6月13日)の復習…「大伴家持の歌学びー奈良時代は誰に学ぶのでしょう」−大伴家持は15歳ぐらいからの作歌があり、女郎(いらつめ)たちとの歌のやりとりで育っていった。
**大伴家持(718〜785年)「略年表」**
・父、大伴旅人。坂上郎女は叔母。父・旅人が大宰府に下ったとき同行。746年、越中国守となり、5年間赴任。万葉集中の家持の歌は473首(越中国に赴任した5年間で、そのうちの220首余りを詠んでいる)。実質上、『万葉集』の編纂者であると考えられる。

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(%エンピツ%)講義の内容
家持、殿上人になる前の年の歌
「天平十六年(744)の四月五日に独り奈良の故宅に居りてつくる歌六首」(抜粋)
☆「橘の にほへる香かも ほととぎす 鳴く夜の雨に うつろひぬらむ」(巻十七・3916)(家持)
(訳)(橘の花の香りがホトトギスの無く雨で消えてしまっていないだろうか)。ホトトギスは夏を告げる鳥。家持はホトトギスが好き。
☆「あおによし 奈良の都は 古りぬれど もとほととぎす 鳴かずあらなくに」(巻十七・3919)(家持)
(訳)(奈良の都はさびれたが、昔ながらにホトトギスは鳴いているよ)。「あおによし」は奈良の枕詞。
…(注)家持は、奈良の旧宅に独りすることもなく時を過ごしている(都は難波宮)。

家持、殿上人(従五位下)になって歌った歌
「天平十八年正月、太上天皇の御在所の雪掃きのため、諸王諸臣が集められた。そのときの勅(みことのり)は、〈雪を題にして和歌を作りなさい〉。…宮中での雪の日の応詔肆宴歌)(抜粋)
☆「降る雪の 白髪までに 大君に 仕え奉れば 貴くもあるか」(巻十七・3922)(橘諸兄)
(訳)(降り積もる雪のように真っ白な髪になるまで大君にお仕えさせていただいとことは、貴くもったいないことか)。最初の歌は、臣下の首席である左大臣・橘諸兄の歌。
☆「大宮の 内にも外にも 光るまで 降らす白雪 見れど飽かぬかも」(巻十七・3926)(家持)
(訳)(ここ大宮の内にも外にも、光り輝くまで降り積もった雪、この雪は見ても見飽きることがない)。
…(注1)天平十二年(740)から十七年(745)までの五年間は都が移った時期(恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京)。家持は、天平十六年は、内舎人(うどねり)で、家に独り、ホトトギスを聞いている。天平十七年従五位下の叙位で殿上人の地位を得る。そして、天平十八年正月、宮中での雪の日、晴れがましい祝賀の歌を詠んでいる。
…(注2)『万葉集』では、天平十七年の歌が無い(空白の1年)。

越中国での初仕事
「天平十八年(746)六月、家持は、越中の国司に任命され、赴任した。…八月七日の夜に、家持の館に集ひて宴する歌」(抜粋)
☆「秋の田の 穂向き見がてり 我が背子が ふさ手折り来る をみなへしかも」(巻十七・3943)(家持)
(訳)(秋の田の穂の様子を見回りかたがた、あなたがどっさり手折ってくださったのですね。この女郎花は)。客の手みやげ(女郎花)によせて歓迎の意を示した主人の挨拶歌である。
☆「をみなへし 咲きたる野辺を 行き巡り 君を思ひ出 たもとほり来ぬ」(巻十七・3944)(大伴池主)
(訳)(女郎花の咲き乱れている野辺。その野辺を巡っているうちに、あなたを思ひ出して回り道をしてきました)。
…(注)越中の国守の館で催された宴での歌で、家持は主人として、池主は客人として歌のやりとりをしている。