遠藤周作文学の歴史小説〜『侍』『王の挽歌』などを中心に

(%紫点%)後期講座(文学・文芸コース)(9月〜1月:全13回)の第10回講義の報告です。
・日時:12月25日(木)午後1時半〜3時40分
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:遠藤周作文学の歴史小説〜『侍』『王の挽歌』などを中心に
・講師:細川正義先生(関西学院大学教授)
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**遠藤周作の略歴**
・1923(大正3)年−1996(平成8)年。小説家(純文学、歴史小説、ユーモア小説、エッセイ)。
・少年時代に洗礼を受ける。1948(昭和23)年慶応大学仏文科卒。仏・リヨン大学にカトリック文学研究のため留学(1950−53年)
・代表作:『白い人』(1955)、『海と毒薬』(1958)、『わたしが・棄てた・女』(1964)、『沈黙』(1966)、『侍』(1980)、『王の晩夏』(1992)、『深い河(ディープリバー)』(1993)。(ユーモア小説):「おバカさん」、「大変だァ」。(エッセイ):「狐狸庵閑話」、「ぐうたら人間学」。

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遠藤周作にとってキリスト教とは(右の資料を参照)
「…母の姉がカトリックだったので、教会に行くようになって、洗礼を受けました。イヤイヤ教会へ行ったわけです。…母親がくれたこの洋服(キリスト教)を、おれの身体に合った和服に仕立て直してみようと考えるようになったのです。」『私にとって神とは』
・叔母の勧めで、カトリック信仰を得た母とともに、夙川カトリック教会に通う。ええ加減な気持ちでキリスト教に入ったが、”日本人として、どのようにキリスト教をとらえるか”は、彼の一生を左右することになる。

講義で取り上げられた作品
(1)純文学
◇『沈黙』(1966年、新潮社刊)(*右の資料を参照)
切支丹禁制の日本に渡ってきた司祭ロドリゴの「棄教」の内面に照明を当てた長編小説。
・(あらすじ):日本が鎖国政策を取ったとき、イエスズ会から日本に派遣されて20年にわたる布教に従事していたフェレイラ神父が、穴吊りの拷問に屈して棄教し、日本滞在の神父は一人もいなくなった。ポルトガル人の司教ロドリゴは、ひそかに潜航し、長崎に近いキリシタン村に上陸するが…弱者キチジロ−の裏切りで長崎に護送されて、海外まで弾圧で名前がきこえていた井上筑後守の取調べを受ける。…(中略)…ロドリゴは、信徒たちを救うために踏み絵を踏むことになる。このとき、彼はキリストの声を聞く。「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」
・「二つの沈黙がある。ひとつは現実の不条理に対する神の沈黙であり、いまひとつ弱さの故にころび、カトリック教史の汚点として歴史の裡(うら)に沈黙せしめられている。」(「鑑賞日本現代文学 遠藤周作」(角川文庫・佐藤泰正著))
◆『海と毒薬』(1957年、文学界)
(概説):戦争末期、九大医学部での米軍俘虜生体解剖事件を題材にした作品。罰を恐れながらも罪を恐れない日本人の習性が、どこに由来しているかを問いただすために生体解剖という異常事件をとりあげた。「日本人とはいかなる人間か」、「日本人にとって罪と罰は何を意味するか」を問うている。
◆『わたしが・棄てた・女』(1963年、「主婦の友」に連載)
(概説):吉岡努は森田ミツの躰を奪い犬コロのように彼女を捨てる。…数年後、吉岡は〈ボクがミツにやったことは、男ならば大半は形こそちがえ一度か二度は経験あることだろう〉と自分自身に言い聞かせて、ミツのことを忘れようとする。だが、それはしばしば苦痛を伴って心によみがえり忘れることはできない。人間は他人の人生に痕跡を残さず交わることはできない。…もし、神というものがあるならば、その神はこうしたつまらぬ、ありきたりの日常の偶然によって彼(神)が存在することを、人間に見せたのかもしれない。
◆『黄色い人』(1955年)(省略)
◆『深い河(ディープリバー)』(1993年、新潮社)(省略)

(2)歴史小説
◇『』(1980年、新潮社)(*右の資料を参照)
(梗概):支倉常長(1571−1622年)をモデルにして、侍、長谷倉六右衛門を描く。1613年伊達藩主政宗の命を受けてフランシスコ会ルイス・ソロテとともにスペインの王に通商開設と宣教師派遣を求める政宗の書を渡し、さらに自らも(形だけのキリシタン)受洗した。ローマ教皇に謁見、通商交渉は失敗。1620年帰国、切支丹禁制のために不遇の死をとげる。
・「俺は形ばかりで切支丹になった。…なぜ、あの国々ではどの家にもあの男(イエス)のあわれな像がおかれているのか。人間の心のどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れられぬものを求める願いがあるのだな。…最後に、処刑の場に行くとき、ずっと仕えてきていつのまにか信者になっていた与蔵が、「ここからは、・・・あの方がお供なされます」−侍(長谷倉六右衛門)は、ふりかえって大きくうなずいた。彼は、最後に受け入れて十字架にかかっていった。
◆『王の挽歌』(1992年、新潮社)
(梗概):大友宗麟と長男・義統(よしむね)の父子の人生が描かれる。中心となるのは宗麟が秀吉に謁見した晩年から少年時代を回想し、人生観に大きな影響を与えたザビエルとの邂逅や島津家との対立などであるが、宗麟の死後も秀吉の伴天連追放令の波紋が息子義統にまで及び、ついには豊後の国を没収され幽閉後病死。
◆『鉄の首枷−小西行長伝』(1977年、中央公論)(省略)

*日本におけるキリスト教との接点
・1549年(天文18):フランシスコ・ザビエル鹿児島に上陸(ポルトガル王の依頼で布教)。ザビエルの日本布教は2年3ヶ月であったが、その間に約700名のキリスト教改宗者をもたらした。ザビエル布教の成功の一つには、彼が日本と日本人を高く評価していたことにあろう。(当時は、宗教の面だけではなく、貿易の目的でキリスト教が奨励された。)
・1568年(永禄11):信長が入京。京都に「南蛮寺」。
・1587年(天正15):伴天連(バテレン)追放令(1580年代、日本人の信徒は約15万人)
・1613年(慶長18):家康、キリシタン禁止令
(注1)キリシタン大名:高山右近、大村純忠(日本最初のキリシタン大名)、有馬晴信、大友宗麟、小西行長
(注2)家康は、はじめはキリスト教を肯定していた。外交顧問としてイギリス人ウィリアム・アダムス、オランダ人ヤン・ヨーステンを採用。両人とも反ポルトガル、反スペインの感情を抱く。その二人の意見は家康に影響。また、幕府の権威の絶対性を確立しようとする考えにキリスト教がそぐわなかったことが、弾圧に向かったと思われる。

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**あとがき**
遠藤周作におけるキリスト教の探究(信仰とは何か、神とは何かを深く問う)
★一神論と汎神論
欧米の考え(一神論)と東洋的な考え(汎神論ー八百万の神)。世界を対立するものとしてとらえていた。しかし、キリシタン大名を調べているうちに、キリスト教と仏教などの宗教が対立しているのではなくて、包含されているのだと考えるようになった。
*遠藤のキリスト信仰…西洋的な父なる神、裁く神ではなく、弱さゆえの罰と苦悩に打ちひしがれた人間を赦し、その人の側を離れない同伴者としてのイエス、母なる神。
★日本人とキリスト教の問題
「罪の意識」の曖昧な日本の精神風土。『海と毒薬』では、生体解剖という非人間的な行為に参加しながらも、良心の呵責を感じない人々が描かれ、日本は神が不在で「罪の意識」を感じることはないという問題提起。(罪を意識するよりも誰かに罰をうけるという意識)
★なぜ、日本にキリスト教が根づかなかったのか
・右上の資料を参照。「日本的感性の底にあるもの」…①個と全体の区分や境界を感じな・い②したがって対立を要求しない③受身的である。
・日本は250年切支丹禁止して処罰を与えた。→それがトラウマとなって、日本のクリスチャンは、現在、人口の0.7%に過ぎない。(韓国は、約30%)。
☆遠藤周作の作品は、今でもよく読まれています。(細川先生)
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(%エンピツ%)2014年もあと数日になってまいりました。
来る年の皆様のご多幸とご健勝をお祈り申し上げます。