(%緑点%)後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全15回)の第13回講義の報告です。
・日時:H27年1月6日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:大化改新の理想
・講師:若井敏明先生(関西大学非常勤講師)
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(%エンピツ%)講義の内容
今日の「大化改新」の講義は、、『日本書紀』(孝徳紀)による経過を読みながら、クーデター(乙巳の変)そのものについてではなく、一連の政治改革を辿ります。
○政変後の政治状況
・「乙巳の変」(645年)6月12日…中臣鎌足、中大兄皇子らのクーデター。蘇我氏の滅亡。
・6月14日…皇極の譲位、弟の軽皇子即位(孝徳天皇)、新政府の発足
・6月19日…飛鳥寺の大槻(おおつき)の木の下に群臣を招集して盟約。【要約】(新政権の発足)「…帝道はただ一つである。これからは、君に二つの政(まつりごと)なく、臣下は一体化する。もしこの盟約に背いたら、天変地異がおこる。…」(ぶれない政治を行っていくことを盟約)
・7月13日:(人民統治の方法を諮問)人民の統治の方法を、豪族たちに尋ねた。
(注1)新政府は、初めから、方針を打ち出すのではなく、みんなの意見を聞こうとしている。
(注2)新政府は、仁徳天皇のような「民のことを考える」政治を目指した。
○八月の政策(*右の資料を参照)
(1) 「東国国司の任命」、「倭国六県への使者」
・戸籍の作成や、田畝の調査を命じている。
【要約】(日本国内のすべての国を治めようと思う。汝らが任国に赴いて戸籍をつくり、田畑の大きさを調べよ。…国司らは、その国の裁判権をもたない。他人から賄賂(わいろ)をとって、民を貧苦に陥れてはならない。…公用の時は、管内の馬に乗ることができ、菅内の飯を食することができる。…判官以下の者が、他人の賄路をとったときは二倍にして徴収する。軽重によって罪科を負わせる。」
(注)行ってはいけないことが、多く書かれている。→ということは、今まで「やっていた」のである。
(2)「鐘匱の制」
・鐘(かね)と匱(ひつ)を朝廷に設置…【要約】(訴えのある人は、その人が部の場合はその統率者である伴造、部でない場合はその一族の長をとおして奏上し、伴造・族長は、その訴えの内容をよく調べたうえで、それを文書にして匱に入れる。もし調べもしないで匱に入れた場合は、それを罪として処罰する。匱に入れられた文書は、天皇が毎朝見て、訴えを審理させる。怠けて審理がなされなかった場合や、不正な審理があった場合は、訴えた人は鐘をついて知らせる。)
○九月〜大化二年元旦
(1)9月1日:使者を諸国に遣わして兵器を収公
(2)9月3日:古人大兄皇子事件
(3)9月19日:使者を諸国に遣わして人口調査、土地の売買の禁令発布。
(4)難波遷都…645年12月に「難波長柄豐碕」に都を遷した。
(5)「改新の詔」…新政府は大化二年(646年)元旦に「改新詔」を発布した。主文四ヵ条。
(注)大化改新詔は、改新の大綱を宣布したものとされるが、『書紀』編纂者の造作とみる説もあり、議論が多い。
○諸政策の帰結(*右の資料を参照)
諸政策の報告を、招集して公開で行っている。
(1)鐘匱の制の実施(2月15日)(*右の資料を参照)
【要約】(ここに集まった卿(大臣・大夫)・臣・連・国造・伴造およびもろもろの人民に告げる。明哲の人が民を治めるには、鐘を宮殿に掛け、それをつかせて人民の憂を観する。…(中略)。匱の投書を公表−〈国役や納税のため都にきた人民を、引き留めて雑役に使っている。投書の忠告に従って、各所で行われている雑役を停止する。)
(2)東国国司への懲罰(3月2日)(*右上の資料を参照)
【要約】(東国の国司たちを詔して「ここに集まった群卿大夫及び臣・連・国造・伴造それにすべての民たち皆聴け。…先に良家の大夫を、東国の八つのくにに国司として遣わした。そのなか六人は法に従ったが、二人はこれに違反した。民を治めようと思えば、君も臣もまず己を正しくして、後に人を正すのではなくてはならぬ。)
(3)東国国司への懲罰(3月19日)(*右上の資料を参照)
【要約】公開で裁判−(東国より帰還した朝集使たちに詔して、任所で.教えを守っているかどうかと聞いた。〈詳しくその有様を申し述べた。「穂積臣咋」が犯したことは、人民に対して不当にものを求め、後で悔いて返したが、全部返さなかった。「巨勢徳禰臣」の犯したことは、人民に対し不当にものを求め、悔いて返したが全部は返さず、また、田部の馬を不当に奪った。その次官の二人は上官の過ちを正さなかったばかりか、かえって自分たちも利をむさぼった。「安曇連」の犯したことは、和徳史が病の時、国造に申しつけて官物(公のもの)を送らせたこと。また、湯部の馬を取った。その次官が犯したことは…。《多くの朝集使が犯したことを述べている≫。…悪事を暴露された国司たちは、裁かないわけにはいかない。しかし、今新しい宮において、神事と農事と二つのことを鑑みて、大赦する。今後、国司・郡司は心して努めよ。)
(注)日本書紀に、これだけ細かく犯したことを記した。→本気度を示すために、特権階級であった国司や名門豪族も逃さないで書いている。
(4)品部の廃止(大化二年三月 皇太子奏上)⇒この改革が大化改新の一番のポイント(一元的な支配体制)
【要約】皇太子の中大兄皇子が率先して入部、屯倉を奉還。「天に双つの日無し。国に二の王無し。是の故に、天下を兼ねあわせて、万民を使ひたまふべきところは、唯天皇ならくみ。…故、入部五百二十四口、屯倉百八十一所を献る」
***まとめ***
◇改新の理想主義的性格と政変
●「白雉四年(653)の政変」
中大兄皇子は、「ねがわくば倭京に遷らむ」と、天皇(孝徳)に奏請したが拒否され、皇祖母尊(皇極)らとともに飛鳥にもどった。⇒654年10月孝徳天皇は死去。翌年正月、皇極が飛鳥板蓋宮で重祚(斉明天皇)。
★「改新の新政府の理想政治は、さまざまな軋轢、抵抗をうんだであろう。公開の場で名指しで不正を暴露された東国国司の良家の大夫にとって、その屈辱は決して忘れられるものではなかったであろう。…おそらく、大夫から国造・伴造にいたるまで、多くの豪族が新政府の理想的政治への不満を増大させていったに違いない。中大兄皇子は、これら大夫、百官人の不満を受けて、無血クーデターを敢行したのであった。私はそのように考えるのである。」(若井敏明先生)
◇明治維新以来、「大化改新」は、王政復古の先駆として、また天皇制中央集権国家の出発点として高く評価されてきたが、この50年間、”改新の詔”は編者の虚構とまで主張する見解がでてきて、論議されている。…改新の詔が問題があったとしても、新政権が一連の政治改革に着手したことは否定しがたい事実で、強い理想を持ちながら実施していたことがうかがえる。
◇大化改新は、突然的なクーデターではなく、周到に準備されていたと思われる。
◇『日本書紀』の面白さを味わった講義でした。