西行歌をよむ−吉野の歌ー

(%紫点%)後期講座(文学・文芸コース)(9月〜1月:全13回)の第11回講義の報告です。
・日時:1月8日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:西行歌をよむ−吉野の歌−
・講師:下西 忠先生(高野山大学教授)
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**西行(さいぎょう)[略歴]**
・1118年−1191年。平安時代後期の歌人。
・1140年、23歳で院の北面の武士の身分を捨て、出家。高野山時代(1149−1178年頃、約30年間)
・西行の旅…吉野、伊勢に止住、四国、関東、東北などへ旅
・鳥羽・崇徳両院の親子の確執の目撃者であり、保元の乱、平治の乱は西行壮年の出来事である。平清盛、源頼朝と会って.語り明かしている。
・家集…『山家集』、『西行上人集』、『聞書集』
・河内の弘川寺(南河内郡河南町)で、文治六年二月十六日入滅。享年73歳。

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花と西行
★「願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」(西行)(山家集77)
(意訳)(どうか、春の、桜の花の咲く下で死にたいものだ。あの釈迦が入滅なさった二月十五日ころに)
・桜に対する西行のあくなき執着がみられる。
・西行の死について、藤原俊成、慈円、良経など時代の歌人も感動したことを歌に詠んでいる。
・この西行歌は辞世の歌だと思っている人があるが、純粋な意味での辞世歌ではない。この歌の作は死のずっと以前にまで遡る。(以前から、西行は桜の下で死にたいとのぞんでいた。)

『新古今集』に見える吉野の和歌
★「吉野山 桜が枝に 雪散りて 花おそげなる 年にもあるかな」(西行)(新古今集、春歌上79)
(意訳)(吉野山に桜の枝に雪が散らついているのをみて、今年は花の咲くのが遅いだろうと嘆いている歌)
・一見なんの変哲もない歌のように思われるが、強く静かな詠嘆がにじみ出ていて、読む者に深くしみてくるものがある。(安田章生『西行』より)
★「吉野山 去年のしおりの 残りけむ 捨てはててきと おもふわが身に」(西行)(新古今集、春歌上86)
(意訳)(吉野山で、去年.、枝を折って目印をしておいた道を変えて、まだ見ない方面の桜の花を、今年は訪ねたい。)
・吉野山での、西行の桜の花にひかれる心の深さが、くまなく丹念に探って歩いている。

『山家集』に見える吉野の和歌
★「おしなべて 花の盛りに なりにけり 山の端ごとに かかる白雲」(西行)(山家集64)
(意訳)(山の端ごとにかかる白雲をみると、どの山の端もすべて桜の花盛りになったことだよ)
・桜の花を、白雲に見立てている。

*(注)吉野が桜の名所となるのは『新古今集』《第八番目の勅撰和歌集、元久二年(1205)成立》以後。『古今集』《第最初の勅撰和歌集、延喜五年(905)成立》当時は、雪の深い所としての認識が強い。
☆「み吉野の 山辺に咲ける 桜花 雪かとのみぞ あやまたれける」(紀友則)(古今集)
(意訳)(吉野の山のほとりに咲く桜は、まるで雪かとばかり見間違えてしまう)
・当時、雪で名高い吉野であるから、雪を連想したのだろう。

西行の桜への思い
▽桜の花に対する思いは、まるで恋の心と同じかもしれない。美しいだけではない。恋愛にはいろんな感情(不安・焦燥・期待・憧憬・失望など)がある。
▽背景に仏教がある
★「御裳濯河歌合」(みもすそかわうたあわせ)(西行は、自ら良しとする歌を選んで、これを伊勢神宮に奉納。藤原俊成に加判(判詞を加え批評すること)を依頼)
・(三十二番 左歌)「花咲きし 鶴の林の そのかみを 吉野の山の 雲にみるかな」(西行)
(意訳)(釈迦入滅に際して、花の咲いた沙羅双樹の林が、悲しみのため白鶴のごとく、白くなった故事による。白雲のように吉野の山の桜花が咲き広がっている情景の中に、釈迦の涅槃の往時を見るおもいがするという、西行の趣向である。)
・(三十二番 右歌)「風薫る 花の林に 春くれて つもるつとめや 雪の山道」(西行)
(意訳)(落花が雪のように山道に積もっているのを見ると、釈迦が全盛で、雪山で修業を積まれた様子がしのばれる)。「つもる」は雪の縁語。

***まとめ***
西行は、23歳の時、妻子を捨てて出家した。仏道に入るということは釈迦の出家と同じで執着を捨てるということである。しかし、多くの和歌を詠み、しかも桜や月の歌を多く作ったということは、その後も多くの執着を持っていたということである。ただ西行の場合、たとえば落花を詠むにもなんとなく宗教的な雰囲気を醸し出していることは否定できない。つまり、一体の仏像を作るということは、一首の和歌を詠むということと同じであるということである。(下西先生)
・桜の花を眺める=一体の仏像を眺める。桜を通して自分の心を眺めている。