吉田松陰と「草莽」

(%緑点%)前期講座(歴史コース)(3月〜7月:全15回)の第2回講義の報告です。
・日時:3月10日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:吉田松陰と「草莽」−松陰は何がしたかったのか−
・講師:笹部 昌利先生(京都産業大学非常勤講師)
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吉田松陰とは
・文政十三(1830)年〜安政六(1859)年。
・1830年、萩城下東郊、松本村に生まれる。杉百合之助[無給通、26石]の次男。
*豊かな学問環境−幼くして山鹿流兵学師範の叔父・吉田大助の養子となる。兵学と経学(儒学)を学ぶ。早くから秀才のほまれ高く、藩主〈毛利敬親(たかちか)〉のおぼえもめでたい。9歳の時藩校明倫館で山鹿流兵学を教授。19歳の時、羽賀台軍事演習(海防についての報告)。
・20歳、九州遊学。21歳(嘉永4年)正月、参勤に加わり江戸に出る。22歳の時、東北視察。
・25歳〈安政元(1854)年〉、浦賀に再来航したアメリカ軍艦に乗り込む「下田踏海」。→【野山獄】に入る。
・27歳の時、釈放されて「杉家育み」。安政3年、「松下村塾」に関わり、やがて松陰が主宰者となる。
・.安政の大獄で、安政六年10月、江戸で刑死。享年30歳。

吉田松陰の人間形成
(1)育まれる松陰
・松陰の生家(杉家)の家格は、無給通(むきゅうどおり)で下級藩士。…長州・萩藩の士席の順番は、末家、一門八家、一族、寄組、大組、遠近附士、.無給通と列する。(江戸時代は家格による仕事が固定化された社会で、住宅の敷地なども大きさ・場所が決められている)
・松陰は兵学が家業の吉田家に養子→学問に邁進する環境
(2)旅する松陰…「もっと知りたい」、「人との出会い」
・机上のみの学問を否定→「九州遊学」(嘉永3年、平戸の葉山左内、熊本の盟友・宮部鼎蔵(ていぞう)と会う)。⇒「江戸へ」(嘉永4年正月、参勤に加わり、江戸へ。山鹿素行、佐久間象山らに学ぶ)⇒「脱藩、東北へ」(嘉永4年12月、通行手形を得ず、東北へ。脱藩の見返りとして、吉田家断絶、士籍削除(「杉家育み」)⇔見たことがないから行く(知的欲求)。まだ、きちんと思想が形成されていない学びの途中で行動に移っている。
◆「是れ迄学問も何一つ出来候事これなく、僅かに字を識り候迄に御座候…」(兄・杉梅太郎宛の書簡、嘉永4年8月)…江戸に出た松陰は、すぐれた学者にあって、挫折感を味わい、自分は〝字を知っているだけだ”と、兄に手紙を出している。
◆「外藩人の交は丸はだかの付合いゆえ、詩文を見せ候ても愉快に候、…豪談劇論宵分に至る」(杉梅太郎宛て書簡、嘉永4年11月)…江戸の「梁山泊」(鳥山新三郎の私塾「蒼龍軒」における会同、宮部鼎蔵らとの再会)で、仲間と会って、癒されたのか、自分を取り戻している。

(3)松下村塾
松陰の志と「下田踏海」
◆「西洋を毀(そし)るも知ってから毀ることがよし」。「洋夷と戦ふの陣法−大砲小銃西洋法ならではとても勝て申さず」(杉梅太郎宛て書簡、嘉永6年8月)…佐久間象山と激論し、外国の軍艦に乗り込み、それで、国外を脱出をこころみる。(嘉永7年3月、金子重之輔とともに「下田踏海」)。
松陰の幽囚と「松下村塾」
密航が失敗し、野山獄(のやまごく)に幽囚。野山獄における獄中教育。→安政二年(27歳)、釈放されて、「杉家育み(はぐくみ)」(生家での禁錮)。安政三年、玉木文之進の塾、久保五郎左衛門によって再興された「松下村塾」へ関わり、やがて松陰が主宰者となる。身分を問わない入門(陪臣・地下医・僧侶・町人など)で、松陰は塾生を友人と呼んだ。

「草莽崛起」論(右の資料を参照)
◆「僕は忠義をするなり、諸友は功業をなす積り」(某宛て松陰書状、安政6年正月)→久坂・高杉も、もう少し情勢をみたらという反対のなかで、松陰は老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を実行しようとし、絶交することになる。
◆「…今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起(そうもうくっき)の人を望む外なし。…」(北山安世宛松陰書簡、安政6年4月)→一般の人が出てくるのを望むしかない。草莽のみが維新変革の主体となりえる。⇒事実、歴史はそうなった。

『留魂録』と松蔭の遺志
◆『留魂録』第8項(要約)
「今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の移ろいを考えたからである。…十歳にして死ぬ者には、その十歳の中に自ずから四季がある。…三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳のも自ずから四季がある。….私は三十歳、四季はすでに備わっており、、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なる籾殻なのか、成熟した.栗の実なのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、受け継いでやろうという人が.いるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実って行くのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。同志よ、このことをよく考えて欲しい。」→自分が死ぬことによって誰かが気付いてくれるであろう。
◆辞世の句 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置まし 大和魂」
(注)『留魂録』の辞世の句の横に、斬首の2日前にあたる「十月二拾五日の日付がみえる。
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***むすびに***
◇吉田松陰とは…「浮世離れした学者」、「見たい、聞きたい、知りたいという欲求にかられる純粋無垢な人間」、「知り得た日本の危機を知らせるために択ばれる過激行動」(笹部先生)
◇さまざまな松陰像…徳富蘇峰による「革命家」松陰像。国定教科書(尋常小学校修身書)と松蔭−近代日本人の手本となる松陰、「忠君愛国」松陰像の形成。
・(注)海外密航を企てた政治犯たるありようを隠匿。
◇松陰門下から幾多の俊才(久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿・入江九一・伊藤博文・山県有朋・品川弥二郎・前原一誠ら…)を輩出したことが、松陰の名を不朽にした。