「太宰治文芸の魅力」

(%紫点%)前期講座(文学・文芸コース)(3月〜7月:全14回)の第3回講義の報告です。
・日時:3月26日(木)午後1時半〜3時半
・会場:SAYAKAホール(会議室L)(大阪狭山市)
・演題:太宰治文芸の魅力
・講師:細川 正義先生(関西学院大学教授)
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**太宰治「略歴」**
・1909(明治42)年〜1948(昭和21)年
・青森県津軽生まれ。本名・津島修治。六男。津島家は富裕な新興商人地主。修治は、母が病弱のため、叔母キヱに育てられた。
・親元を離れて潤沢な仕送りを受けつつ、青森中学、弘前高校、東大仏文科へと進む。
・高校時代に、芥川龍之介の自殺に衝撃を受け、学業を放棄して、花柳界にも出入りするようになる。
・1930年東大に入学後、左翼運動にも関心。→1932年非合法運動との絶縁。
・太宰の青年期は、数度の自殺未遂・麻薬中毒・精神病院入院など苦悩の連続。
・1939年、井伏鱒二の紹介で、石原美智子と結婚し、『富嶽百景』を発表した頃から、いわゆる中期の安定期に入る。
・1945年の敗戦後、坂口安吾、織田作之助らとともに無頼派とよばれた。
・1948(昭和23)年6月13日夜半、降りしきる雨の中を、山崎富栄と玉川上水に投身自殺。
☆主な作品:『晩年』(1936年)、『富嶽百景』(1939年)、『走れメロス』(1940年)、『斜陽』(1947年)、『人間失格』(1948年)など。
★太宰文学の三期区分[参考文献:「太宰治」(細谷博著、岩波新書)]
「前期」…1933(昭和8)年の作家「太宰治」の出現から最初の妻と別れる1937(昭和12)年頃まで。(作家として様々な実験的試みをおこなった)
「中期」…甲府へ行き見合いをする1938(昭和13)年頃から津軽に疎開して敗戦を迎える1945(昭和20)年頃。(作家として自覚を持ち安定した創作を続けた)
「後期」…1945年の敗戦後から1948(昭和23)年まで。(戦後社会の中で反逆的な無頼派の姿勢)

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○作品を読む
第一創作集『晩年』 (1936年、砂子屋書房より刊行)
1933年2月から36年4月にかけて発表された15編の短編小説を収める第一創作集。「思い出」、「魚服記」、「葉」、「道化の華」、「逆行」、「ロマネスク」など15編。作家になろうとした太宰が、様々な工夫をこらして書き溜めた短編からなる。[私は、この短編集一冊のために10箇年を棒に振った。晩年は私の最初の小説集なのです。これが、私の唯一の遺書になるだろうと思ひましたから、題も「晩年」としておいたのです。]
「思い出」 (*右の資料を参照)
「叔母についての記憶はいろいろあるが、その頃の父母の思い出はあいにくと一つも持ち合わせない」
・幼少期の子守だった叔母キヱ(母の六歳下の妹)のこと、小学校から青森で過ごした中学校の思い出などを細やかに描いている自伝的な作品。
「魚服記」 (*右上の資料を参照)
「炭焼小屋で父に犯されるスワの入水と変身を民話風に描く。…いつしか年頃になったスワは、酔って帰った父に犯される。小屋を飛び出したスワは吹雪の中「おど!」と一声叫んで滝壺に身を投げる。気がつくと鮒に変身しており、水中を泳ぎまわるが、やがて何を思ったのか、まっすぐに滝壺に向かいくるくると吸い込まれた。」
・故郷、金木の馬禿山(まげやま)にある滝を舞台としている。
「葉」 (*右上の資料を参照)
・ヴェルレエヌの詩の一節「撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」から始まる36の断章。「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目(しまめ)が織り込まれていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。」が最初の断章。

『富嶽百景』(1939年)(*右の資料を参照)
太宰30歳のときの創作。美知子夫人との結婚後の第一作目で、転換期の代表作。富士のさまざまな姿を通して、その時々の作者の心象風景を描いた作品。
(作品紹介)「東京のアパートの窓からみる富士は苦しい。アパートの一室で、ひとりでがぶがぶ酒を飲んだ。あかつきに小用に立って、便所の四角い窓から富士が見えた。小さく真白で、左のほうに少し傾いたあの富士を忘れない。…(中略)、他の遊覧客と違って、富士に一瞥も与えず、反対側の山路に沿った断崖をじっと見ている私の母によく似た老婆がいた。富士みたいな俗な山、見たくもないと考えていた私は、老婆の行動にしびれる快感をおぼえた。すると、老婆はぼんやりひとこと、「おや月見草」と言って、路傍の一箇所を指さした。…3778メートルの富士の山と立派に相対峙し、みじんもゆるがず、けなげにすっくと立っていたあの月見草はよかった。富士には月見草がよく似合う。」
・私(太宰)は、「思ひをあらたにする覚悟」で井伏氏のいる御坂峠に行き、作品を書く。富士を見直して己をも見直すに至る「私」を書く。つらい過去から脱して、人々の好意に感謝し、富士には「かなはない」と率直に思い至る姿が、すがすがしく、人の世の広がりへと覚醒する中期初めの傑作である。

『走れメロス』(1940年、新潮)(*右の資料を参照)
(作品紹介)「シラクスのまちにやってきたメロスは、暴君ディオニスの暴虐に激怒して捕えられ、死刑を宣告される。メロスは、妹に婚礼を挙げさせるため3日間の猶予を願い、友セリヌンティウスを身代わりとして村に戻る。婚礼の後、シラクスへと急ぐメロスを、川の氾濫や山賊がさまたげ、一時はあきらめるが、再び殺されることを覚悟の上で走り出す。≪日没には、まだ間がある。私を待っている人があるのだ。…私は信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!メロス≫。間一髪、刑場へと到着し、メロスらの友情を見て、王の人間不信もとけ、「信実」の尊さをさとる。」
・正義を信じる単純なメロスと、人を疑わずにはいられぬ孤独な暴君の対比が、友を身代わりとした約束の実行をめぐって浮き彫りされ、爽快感を与えてくれる。太宰の中期にみられる美談の物語。

書簡
右の資料の書簡は、佐藤春夫宛と川端康成宛。
・太宰は、佐藤春夫を慕い長く師事した。
・1935(昭和10)年、「芥川・直木賞」が創設。太宰は、芥川賞がほしかった。川端康成に〝泣訴状”と知られる書簡を送っている。しかし、芥川賞の受賞がかなうことはなかった。

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・講義で取り上げられた作品・書簡
【作品抜粋】
『思い出』(海豹)(1933年)、『魚服記』(海豹)(1933年)、『葉』(鷭)(1934年)、『道化の華』(1935年)、第一創作集『晩年』(1936年)、『狂言の神』(1936年)、『富嶽百景』(1936年)、『二十世紀旗手』(1937年)、『HUMANROST』(1937年)、『灯篭』(1937年)、『満願』(1938年)、『姨捨』(1937年)、『富嶽百景』(1939年)、『女生徒』(1939年)、『葉桜と魔笛』(1939年)、『駈込み訴へ』(1940年)、『走れメロス』(1940年)、『東京百景』(1941年)、『新郎』(1942年)、『正義と微笑』(1942年)、『右大臣実朝』(1943年)、『人間失格』(1948年)
【書簡】
「佐藤春夫宛」(1936年)、「川端康成宛」(1936年)、「河盛好蔵宛」(1946年)