「稲荷山鉄剣と江田船山鉄刀の銘文が語るもの」

(%緑点%)前期講座(歴史コース)(3月〜7月)の第4回講義の報告です。
・日時:4月7日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:稲荷山鉄剣・江田船山鉄刀の銘文が語るもの−雄略期という時代−
・講師:白石太一郎先生(近つ飛鳥博物館館長)
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○古墳分布からみたヤマト政権の変質
五世紀の前半から中葉すぎころまでの日本列島では、近畿地方、それ以外の地域で巨大な前方後円墳が数多く造られる(ヤマト政権と呼ばれる首長連合・政治連合)。ところが五世紀後半になると、古墳のあり方が大きな変化。ヤマト政権の支配が強まるにつれ、地方の巨大古墳の築造が廃れていく。この五世紀後半における大きな変化の結果、ヤマト政権と地方の政治勢力との関係がどう変化したかを考えるうえで、きわめて重要な資料となるのが、五世紀後半に製作された、「稲荷山鉄剣」と「江田船山大刀」という二つの銘文をもつ刀剣です。

稲荷山古墳と稲荷山鉄剣
稲荷山古墳(いなりやまこふん)(*右の資料を参照)
埼玉県行田市(ぎようだ市)にある武蔵(埼玉県と東京都)では最大の古墳群・埼玉(さきたま)古墳群で、最初に(5世紀後半ころ)造営された稲荷山古墳(墳丘長120m)とよばれる前方後円墳がある。前方後円墳では特異な長方形の二重周濠を有する。
・稲荷山古墳の後円部墳頂には、中心からはずれて礫槨(れきかく)と粘土槨の二つの埋葬施設が浅い位置で確認。副葬品として、金象嵌した鉄剣、鏡や帯金具、鈴杏葉などの馬具、農工具などが出土した。
・後円部造り出し付近から出土した須恵器は、陶邑TK23型式ないしTK47型式に比定(5世紀末)。

稲荷山鉄剣とその銘文(*右の資料を参照)
稲荷山鉄剣は、稲荷山古墳の礫槨から出土したもので、その表裏に115文字の銘文が金象嵌で書かれていた。
(概説)「辛亥年の七月にこの銘文が記されたことを示すとともに、この剣を作らせたヲワケの祖先であるオホヒコから、ヲワケにいたる8代の系譜を示す。さらに、ヲワケの一族が、代々杖刀人(じょうとうじん)の首(かしら)として大王にお仕えしてきた【杖刀人とは、刀を持って大王の宮を警護する、のちの舎人(とねり)に相当する武人と考えられる】。ワカタケル大王(雄略天皇)がシキの宮におられた時、大王が天下をお治めになるのを自分がお助けしたこと、この練に練ったすぐれた刀を作って、自らとその一族が大王に仕えてきた由来を記した。」
・「辛亥年」…この銘文に名前が出てくるワカタケル大王が、雄略天皇にあたると考えられ、銘文の干支(辛亥年)から471年製作と推定。
・ヲワケなる人と、この剣を出土した稲荷山古墳の礫槨の被葬者とに関係について…この剣を作らせたヲワケは、阿部氏のような中央の軍事的な大豪族の族長で、この剣を、武蔵の有力豪族との関係を強めようと、大和に上ってきた武蔵豪族の子弟に鉄剣を授け、その子弟が故郷に錦を飾り、鉄剣とともに葬られた。
*(注)豪族の族長でなくその子弟に鉄剣をあたえた。…この古墳のくびれ部付近から出土している多量の須恵器から五世紀の第4四半期ころ想定。礫槨から出土している馬具の鈴杏葉(すずきょうよう)は、それより一段階新しい須恵器の時期のもの。墓主の埋葬後20年ほどになって追葬された人に与えた。彼が軍事的に大きな功績をあげたためかもしれません。

江田船山古墳と江田船山大刀
江田船山古墳
熊本県菊水町にある前方後円墳で墳丘長は62m。その後円部にはくびれ部に開口する横口式の石棺(せっかん)式石室があり、その内部から、銀象嵌大刀、鏡、冠帽、耳飾、帯金具、馬具、武器・武具類など、多彩な副葬品が出土(国宝に指定)。
・出土品のうち、耳飾、冠帽類は朝鮮半島の百済地区に類例があり、菊池川・有明海を足がかりに、かの地との文化的交流を行っていた被葬者が推定される。

江田船山大刀とその銘文(*右の資料を参照)
江田船山古墳から出土したもので、鉄刀の棟(むね)(刃の反対側)の部分に、75文字の銘文が銀で象嵌されている。
(概説)「ワカタケル大王の世に奉事した典曹人(てんそうじん)のムリテがこの刀を作らせたこと、練りに練り、振(う)ちにうったこのよい刀を服するものは、さまざまなよいことがあることを記し、最後にこの刀を作ったものは伊太和であり、銘文を書いたものは張安である。」
・典曹人…大伴氏のような外交を統括している中央豪族。
・中央で外交を統括していた有力豪族から、朝鮮半島に出かけて外交や交易活動を実際に担当していたこの肥後(熊本)の豪族に与えたものと考えられる。
*(注1):冒頭の文「治天下□□□鹵大王世」は、反正天皇と読まれていた。稲荷山鉄剣の銘文から「治天下ワカタケル大王」とよんで雄略天皇と比定する説が有力。
*(注2):古墳から出土した須恵器や副葬品を分析して、五世紀後半に埋葬された最初の被葬者以外に、五世紀末ないし六世紀初頭、六世紀前半に二人の人物が追葬されている。江田船山大刀は墓に追葬された、おそらく新相の遺物をともなう二番目の被葬者の持ち物である可能性が大きい。(白石先生)
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**まとめ**
・稲荷山鉄剣も江田船山大刀も、中央豪族が、ヤマト王権のなかでその氏が担当している職掌をまっとうするために、地方でその仕事に協力してくれている豪族にあたえるために製作したものにほかならないと考えています。(白石先生)
・東西に遠く離れた古墳で奇しくも発見された二つの銘文はきわめて重要。
・雄略朝期に、ヤマト王権の勢威が東西に広く及ぶようになった。
・特定の職掌関係で結びついている中央豪族と地方豪族の間には、自分たちはともに同じ祖先をもつという同祖・同族意識が形成されていた可能性が大きい…[『日本書紀』孝元紀(大彦系譜、阿倍氏)]、[『日本書紀』敏達紀(百済の高官・日羅は有明界・八代海沿岸の豪族。大伴氏の系譜]
(参考文献)「考古学と古代史のあいだ」(白石太一郎著)(ちくま文芸文庫、2009年)