「幕府を背負った尼御台 —北条政子—」

○前期講座(文学・文芸コース)(3月〜7月)の第5回講義の報告です。
・日時:4月23日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:幕府を背負った尼御台−北条政子−
・講師:田端泰子先生(京都橘大学名誉教授)
*本来は、「歴史コース」のテーマですが、「文学・文芸コース」は受講生の8割が女性ですので、「女性史」も取り入れています。
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**北条政子【略歴】(1157−1225年)**
・1178年頃:大姫(長女)誕生、父・時政、源頼朝との婚姻を承認。
・1180年:頼朝、以仁王の令旨に応じ挙兵。政子は伊豆山にかくまわれる。
・1182年:政子、長男・頼家を生む
・1185年;壇の浦の戦い(平氏滅亡)。頼朝、「守護・地頭設置」の権限を得る。(鎌倉幕府の成立)
・1192年:政子、次男・実朝を生む
・1199年:頼朝急死。頼家、征夷大将軍
・1203年:実朝、征夷大将軍
・1219年:実朝、鶴岡八幡宮で暗殺
・1221年:承久の変(政子、御家人たちに演説)
・1225年:政子逝去(69歳)

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2.「御台所」政子の登場
〈1180年〉 頼朝、以仁王の令旨に応じ挙兵。「石橋山の戦い」で敗れ安房に逃げる。政子は伊豆山のお寺にかくまわれる。
・政子は、頼朝が戦場に交わるため年来してきた勤行を続ける。頼朝の正室、御台所(みだいどころ)の最初の役割は、夫留守中の勤行継続や戦勝祈願を含めた「家」を守ることにあった。厳しい合戦の最中であったが、頼朝と連絡を取り合う。

■「亀の前事件」(『吾妻鏡』寿永元年(1182)六月)(「御密通」)
頼朝の御台所としての政子の権限を示す事例として、亀の前事件(政子の妊娠中、頼朝は亀の前を寵愛)がある。
「頼朝は寵愛する亀の前を、小忠太光家の小窪の宅に招き入れた。亀の前は良橋太郎入道の息女で、頼朝が伊豆にいた時から昵懇(じっこん)な間柄であり、一年前から「密通」していた人であった。」
・政子は大いに怒り、亀の前を匿(かくま)っていた伏見広綱の家を破却させる。政子に命じられて家を破却した牧宗親は、頼朝に召し出され、髻(もとどり)を切るという辱めを与えられた。頼朝の言い分は「御台所を重んじるのは神妙だが、どうして、内々に自分(頼朝)に知らせなかったのか」と。
・ところが、頼朝が牧宗親に恥辱を与えたことは、北条時政(政子の父・時政は牧の方を妻としていた)を怒らせ、時政は伊豆に帰ってしまう。鎌倉を去って下国したことは、頼朝への臣従を拒否したことになる。
・こののち、頼朝は伏見広綱を「御台所の憤り」によって遠江国に配流。御台所も御家人の非を糺す権限(処罰権)をもつ。頼朝の正室を尊重することも御家人の義務。(「神妙」)。


■「静御前」(『吾妻鏡』文治二年(1186)四月八日)(右の資料を参照)
この部分は、政子の気持ちが伝わる数少ない場面である。
(意訳)「鶴岡八幡宮で頼朝と政子は、静の舞を鑑賞。…静は、〔よし野山、みねのしら雪ふみ分て いりにし人のあとそこひしき〕〔しつやしつ しつのたまきくり返し 昔を今になすよしかな〕の歌を歌った。これに対し頼朝は、≪反逆者の義経を慕い、別れの曲を歌うとはけしからん≫と不快感をあらわにした。御台所政子は、「君(頼朝)流人として…暗夜に迷い深雨を凌ぎ君の所に到る。また、石橋戦場のときは、独り伊豆山に残留し、君の存亡を知らず。…その愁いを論ずれば、今の静の心の如し、義経との多年の契りを忘れず、恋い慕う姿こそ、貞女の姿です。」
・政子は、静の義経への恋慕を肯定したのである。その中で、自分が父の反対を押し切って頼朝のもとに行ったこと、伊豆山に残って頼朝の安否を気づかったことを引き合いに出した。

■「富士の巻狩り」(『吾妻鏡』建久四年(1193)五月二十六日)(右上の資料を参照)
頼朝の親馬鹿ぶりに対して、政子のクールな賢母ぶりを示すエピソードとして、よく知られている場面。
(意訳)「頼朝は富士の裾野で巻狩り。この時、12歳の長男頼家も初めて参加。そして、見事に鹿を射止めた。頼朝は喜んで、すぐに梶原景高を使者に立てて、鎌倉の政子のもとにわが子の手柄を報告した。しかし、政子は特に感心しなかった。≪武士の嫡子として、原野の鹿や鳥を獲ったところで、別に珍しくない。このような軽はずみな使いを立てるなど、人迷惑もはなはだしい。」
・政子と頼朝の見解には、いろいろな意見がある。政子にとって武家の嫡子が鹿や鳥を射るくらいは、普通の能力であると判断。一方、頼朝にとっては、頼家が鹿を射たことは、嫡子が武将としての名誉であり、並み居る御家人の前で証明できたので、大きな意義があった。

3.「尼御台所」の役割増大
(1199年)源頼朝急死(53歳)。『吾妻鏡』には落馬がもとで重病になって死んだと書かれている。 頼家、2代将軍に就任したが独断専横のふるまいが御家人の反感を買い、御家人13人による合議制に。
(1203年) 時政は頼家を伊豆修善寺に幽閉して殺し、実朝を3代将軍に据え、梶原景時や畠山重忠といった重臣を倒して実権を握る(北条氏の台頭)。
(1219年)実朝、鶴岡八幡宮で、頼家の遺児公暁(くぎょう)によって、殺害された。

■「政子、御家人たちに演説」(『吾妻鏡』承久三年(1221)五月十九日)(右の資料を参照)
*実朝の暗殺の2年後、幕府内部の動揺を見透かして、承久(じょうきゅう)三年、後鳥羽上皇は軍勢を召し集め、北条義時追討宣旨を諸国に下す。承久の乱に際して、政子が幕府の恩を説いて東国武士を京に攻め上らせた話は有名である。
「皆心を一つにして聞きなさい。これは私の最後の言葉である。故頼朝公は朝敵を征伐して、関東を草創して以来、官位といい、俸禄といい、御家人に対する御恩は山より高く、海よりも深いのではないか。それに対する感謝の念が浅くてもよいのだろうか。しかし今、逆臣の讒言(ざんげん)によって、誤った綸旨(りんじ)が下された。名を惜しむものは、早く藤原秀泰や三浦胤義などを討ち取り、三代にわたる将軍に遺跡を全うすべきである。但し、院方に加わろうとする者は、只今言明すべきである。」
群参していた武士は命に応じ、ただ涙にくれて返答できず。ひたすら恩に報いようとした。
・演説後、戦術で評議を重ねたが意見が分かれる。「足柄・箱根の関所を固めて待ち受ける」⇔「速やかに兵を京都に派遣する」。政子が評決…速やかに京に参るべきです。京都をめざした幕府軍はわずか1ヵ月で上皇方を制圧する。
・乱後、三千余ケ所の没収地を配分したのは政子「二品禅尼」(論功行賞)
・鎌倉幕府最大の危機は,政子(尼将軍)の力で乗り切った。

4.北条政子の果たした役割
★御台所時代.(1177〜1199年):頼朝の妻として、鎌倉幕府御台所(みだいどころ)として過ごした時期。四人の子(大姫、頼家、乙姫、実朝)を出産。
・夫と対等に、御家人たちの主君
★後家尼時代(1199〜1225):頼朝死後、最高決定権を持ち、政治を後見・主導。
・鎌倉幕府を仕上げたのは政子

(注)『吾妻鏡』
治承四(1180)年の頼朝の挙兵から文永三(1266)年に至る鎌倉幕府の記録を編集した歴史書。鎌倉幕府の動きや東国の情勢をはじめ、朝幕関係や武士の在り方を探るうえでの基本史料となっている。田端先生によれば、「吾妻鏡は是々非々で書かれている」。