「飛鳥京跡苑池」

(%緑点%)前期講座(歴史コース)(3月〜7月)の第7回講義の報告です。
・日時:5月12日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:飛鳥京跡苑池
・講師:和田 萃先生(京都教育大学名誉教授)
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飛鳥京跡苑池(あすかきょうあとえんち)
飛鳥京跡苑池は、宮殿に付属する庭園として造られており、飛鳥時代の天皇が饗宴や祭祀をおこなう際に使用された特別の施設であった。中国や朝鮮半島(新羅)の影響を受けながらも、独自の要素が強い日本最古の本格的な庭園跡である。
・飛鳥京跡苑池は、斉明朝(7世紀中葉)に造営され、天武朝(7世紀後半)に整備され、10世紀にいたるまで機能し、鎌倉時代までには完全に埋没したと推測される。


◆飛鳥京の背後に苑池
飛鳥京跡苑池は、飛鳥川右岸の河岸段丘上に立地し、飛鳥京の内郭の北西に接する。
・中国の都城では、宮の後方に苑池が設けられている。苑池が神仙の住まう場所として見立てられていた。日本の場合、天皇は苑池に神仙境の風景を読み取りながら神を演じなければならなかった。苑の植物(薬用植物−不老不死の仙人に近づくための薬草)と池の中島は苑池をデザインする際の基本的な要素であった。(『飛鳥−水の王朝』千田稔著、中公新書より)
◆苑池の概要
苑池は、南北約200m、東西約100mの広大な庭園で、渡堤(わたりづつみ)で仕切られ、飛鳥時代の石組護岸をもつ南北の二つの池、建物などから構成され、北池からは水路が北に向かって伸び、その先端は西へ折れ曲がる。


二つの池「南池と北池」
☆「南池」
南北約55m、東西約65m、五角形の平面型を呈する。.池底には石が平らに敷きつめられ、池の中央には島状の石積みが認められ、その北には中島(東西32m、南北6m)がある。
・多数の柱穴が中島周辺、岸辺から見つかった。水上舞台(岸から張り出す縁台状の施設)があったとみられる。
・池の南側から、2基の石造物が設置されていた。1基は石材の内部をくりぬいた石槽、1基は横方向の孔を貫通させて池に噴水するもの。
*右上の写真は南池遺構です。〔史跡・名勝「飛鳥京跡苑池」(第174次調査、奈良県橿原考古学研究所発行)の資料より〕
☆「北池」
南北約50m、東西約35m、深さ約3mで、北東隅には階段状の施設がある。池底には石が平らに敷きつめられて、北には水路が伸び、飛鳥川に排水する用途をもつ。
白錦後苑か
『日本書紀』には天武十四(685)年に天皇が「白錦後苑に行幸する」と記されている。このことから、飛鳥京跡苑池が白錦後苑(しらにしきみその)の可能性がある。
木簡などからの出土品から
水路などから苑池の機能などを示す木簡が出土、また、池の中の堆積土から植物の種、核、花粉などが見つかっている。→薬草を栽培する薬園があった。

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**あとがき**
・「飛鳥川沿いで見つかったので驚きであった。」(和田先生)…飛鳥京跡の内郭北側、飛鳥川よりの部分はこれまで発掘の対象となっていなかった。ここにも本来は宮殿遺構があったことは考えられたが、あまりにも飛鳥川に近すぎるので、後世の川の氾濫によって遺構は押し流され残っていないとみられていた。しかし、大正5年に、石造物(出水の酒船石)が見つかった所でもあるので、発掘が始まった。結果は、思いのほかよく遺構が残っていた。
・奈良県橿原考古学研究所(橿考研)は、平成11年(1999)から平成13年(2001)にかけて4回の発掘調査を実施。飛鳥時代を代表する庭園跡として平成15年(2003)に国の史跡と名勝に指定。奈良県は、平成28年度の完成を目標に、苑池の保存・整備・活用事業を実施。橿考研は、その一環として、これまで明確でなかった南池東岸と周囲の構造の確認調査を平成22年から実施している。
*右上の写真は、南池の石造物です。石材を裾広がりに成形し、頭部には横方向の孔を貫通させ、水を流す役割をしていた。高さ165cm、最大幅125cm、重さ2.5t。(撮影日:H27年5月2日、橿考研付属博物館のエントランスホールに展示)